2022年9月20日(火)

「夕暮れ、灯りの下の戸坂」pastel on paper  2022/09/20  © KYOHEI SAKAGUCHI

 昨日は早く寝過ぎて、12時に起きて、さっと原稿を書いて、2時くらいに戻ってきて、また寝た。6時に起きて、アオとゲンに朝ごはんを作る。今日からちょっと涼しくなったのか、長袖を着た。子供たちを見送った後、書斎へ行き、10日ぶりに新作の書き下ろし原稿を再開した。タイトルはまだ確定ではないが『絶望ガイドブック』という名前が浮かんだので、とりあえずはそうやって名付けて書いている。僕の場合、名前が生まれないと、なかなか書き進めることができない、同時に、名前が浮かぶと、中身なんか知らなくても、何も思い浮かんでいなくても、書き進めることができる。不思議なもんである。鬱の最中には、何一つ浮かばない。浮かんだことがない。でも、鬱が明けた瞬間に、いつも5つくらいの新作のタイトルが浮かんでくる。これはいつもどういうことなのかわからない。だから、もう鬱ですらないんだと思う。創作をしていく上で大事な過程としか思えない。今の僕はそう思う。しかし、鬱の僕はたまったものではないと思っている。たとえ今の僕が、創作に大事だから我慢してくれ、と伝えても、そりゃ当然だ、実際、苦しみ担当は僕ではなく、彼なのだから。その彼とは誰かってのも、ずっと考えているけど、彼もまた僕なのだろう、それも当たり前の話だ。しかし、この二人は完全に分離していて、解離しているというよりも、全くの別人で、それぞれにそれぞれの人生があるように思える。僕の体を使って、二人の人生がある。それをどうにか統合しようと試みてきたが、それは多分不可能だ。だって、違う人だから。その観点がここ最近は出てきて、楽になっている。全く違う人間が二人いて、その二人の人生を一つの体で味わえると思ったら、それはそれで面白いじゃないか、いや、面白いとまでは思えないけど、それもまた悪くはないはずだ、くらいの感じか、いや、悪くないどころか、全く違う二人がいることはおそらく、僕の仕事に関してだけ言えば、とても良い作用がある。おかげで成立していることも多い。だから、僕が今のこの人生を選んだことに関しては、とてもよかったんだと思う。この人生以外にはありえないわけだし。ということで僕は2人それぞれを(なんと、アオが4歳の時に言ったのは、2人、ではなく3人いるらしいのだが)それぞれにのびのび成長させることにした。元気な僕はどんどん伸び伸び生きている。一方、鬱の時の僕は、それなりに大変なことも多く、なかなかうまくいかずに困っている時をよく見かける。というわけで、今度は鬱の僕を助ける本を書いてみよう、ということで『絶望ガイドブック』を書くことにしたのだ。僕の場合は誰かに書くのではなく、常に僕に書く、でも僕は複数いるので、どうやっても自分自身に書いているようにではなく、他者に向かって書いているように見えるんだろう。この日記もそうだ。これは誰かに向かって書いているのではなく、僕に書いている。鬱のとき、全ての記憶と経験の実感が喪失されてしまうので、それを文字面だけでも思い出せるように、悲しいかな、文字面だけを追って思い出したとしても、それは別の人の記憶としか認識できないので、体の奥底までは実感することができないのだが、それでも、過去の時間をそのように生きたという、正確な描写が残っていると、一応、自分の中で、生まれてからの線が引ける。そうすると、少しだけ、繋がっている感触を得ることができる。それがないと、その瞬間にしか生きていないような気になってしまう。でも、最近の僕は、それでもいいんじゃないかとも思っている。瞬間だけを生きるようになってもそれはそれでいいのではないか。記憶が分断されるのは、恐ろしいことだと思ってきたけど、実際に鬱の時の記憶の喪失の恐怖は今でもとんでもないのだが、とは言いつつ、最近は心の足腰みたいなものがついてきているので、記録に残さない人生もやってみてもいいかもしれないと思いはじめている。10年後くらいにできていたらいいなと思うし、実際は、そのようなやり方の方が、もっと伸び伸び生きていけるんじゃないかとも思う。

 書き下ろし原稿はすんなり10枚進んだ。これで40枚目超えた。今回はゆっくり10月末くらいに仕上がるように書いていこうと思っている。まずは初稿は200枚くらいでいいような気がする。そこまで長いものだと鬱の時の僕が読むには体がしんどいから。でも、短いけど、繰り返し読みたい。苦しい時は波があるので、何度も持ち直してもまた苦しくなっていくからだ。このように僕は別の僕に書いているので、もっとこうしてほしいとかそういうアイデアが別の僕からやってくるので(ということは、つまり、この元気な時の今の状態の中にも、鬱の時の僕が潜んでいるってことで、どうやら、記憶は分断されているが、彼も今、僕の体のどこかには当たり前ではあるけれど、隠れて暮らしていることは最近わかってきた)、その要望に答えるような感じで書いていく。だから、僕は書くことが止まらないんだと思う。本を書く作家みたいな気持ちだとうまく続かないし、元々そんなつまりじゃないから、僕はいつも別の僕が楽になれるように、楽しくなってくれるように、書いている。この書く連環は、僕にとってはとても良い。一番届けたい人が常にいるのは、創作をする上でとても大事なことだと思う。別の僕とはまだ完全に出会えていない。直接出会うことが僕の目標なので、終わらない目標ではあるが、生まれてこのかた、ずっと目指している境地でもあるので、とにかくどんな状態なのか想像もできないが、灯台はなんとなく見えているし、灯台の方向がはっきりとその目的地と繋がっているとも思えないけど、それは方角くらいの正確さでしかない、それでも、いつも目指すところがあるのは、僕が心地よく生きていくための大事なエンジンになっている。書いた原稿は編集者の九龍ジョーと橙書店の久子ちゃんに送信。これもいつも通り。いつも僕は書いた原稿を担当の編集者と久子ちゃんに送る。この方法論も2015年からもう7年になる。橙書店の久子ちゃんは、彼女が年上なのだが、女性の平均寿命長いんだし、きっとお互い同じ頃に死ぬのよ、だから、ずっと一緒にやっていくんだよ、簡単に諦めるんじゃないよ、と言われている気がする。言われたこともあるんだと思う。同じ熊本で、橙書店とmuseumは同じ通りにあって、僕は今、44歳で、95歳くらいまで生きるつもりではいるから、そうなると、久子ちゃんは100歳を超えてしまうのだが、そんなわけで後50年くらいは今のように書き続ける人生が続くと思うと、しかも、僕の場合は絵も描き続けると思うのだが、そういう人生があと50年も続けられると思うと、それは嬉しいと素直に思う。もちろん、書くのは一人の仕事だが、久子ちゃんがいるから、日本の外れの熊本で書き続けていても、特に不安はない、それどころか、熊本でやっていることが面白いじゃないかと思える。先輩には、渡辺京二さんと石牟礼道子さんの関係もある。彼らも熊本に住み、死ぬまで書き続けている。京二さんは92歳の今でも書き続けている。僕と久子ちゃんの関係と同じであるとは思わないが、それでも、そういう二人が、熊本で死ぬまで書き続けていることを目の当たりにできたことは、本当に幸運だったと思うし、生前の石牟礼道子さんに、僕は4年くらいだったが、それでも、顔を合わせて、作品について話したり、書き続けることについて話せて、幸運だったし、この出会いがあるとないのとでは、全く人生が変わっていたと思う。京二さんのところには今後も、ちょこちょこ顔を出しながら、語ってもらったことを文字起こししようと思っている。僕にとっての祖父のようでもあり、生きる先輩である。生きて会いにいけるということが奇跡である、と夢の中で道子さんが僕に言ったことをひしひしと身に感じている。京二さんは知の巨人でもあるので、無知な僕は行くと、恐縮してしまっていたが、そんなこと気にしてられない、自分のことなんか気にしないで、今やろうと思うことを、素直にやっていこうと思っている。素直が一番だ。

 原稿を書き終わって、家に帰って、リビングルームを掃除、気持ち良くなったので、写真を数枚撮り、アトリエに帰ってきて、今度はパステル画を一枚描いた。夕暮れ時の蛍光灯で照らされる町が何故だか好きなので、それを描いた。畑の帰り道だ。いい絵になったと思う。新作シリーズの完成が楽しみだ。いい感じで進んでいる。同時に、またキャンバスに絵を描いてみたいとも思い始めている。思い立ったら、即行動。人を介さないことであれば、それを実践しても良いことにしている。最近では躁状態になっても人に誰彼ともなく電話することがなくなった。久子ちゃんもそこは本当に進歩してるよ、と言ってくれた。躁状態にあることを、人が気づかないくらい、って。そうなれば、何も問題はない。家の中で家族に躁エネルギーを全開放すれば、ただ喜ばれるだけだし、家にいてくれて嬉しいってのが子供達からも伝わるので、僕の心にも良い。

 今日は、精神科の診察日。主治医の宇野先生と2週間ぶりの対話。鬱明けしたのがまさに2週間だったので、その後、どんな調子だったかを話す。宇野先生から見ても、最近の躁状態はかなりコントロールが効いていて、坂口さんは+10だというが、僕にはそうは見えない、そこまで問題を感じない、気持ちがよく仕事ができるなら、それだけで100点、というお話。確かにそれはそうだ。とにかく、最近の躁鬱コントロールに関して、宇野先生は、とにかくあなたはよく頑張っている、とすごい褒めてくれる。薬を飲むことも僕の自由にさせてくれて、躁の時の行動も鬱の時の行動も、基本的に宇野先生は何も言ってこないのだが、こんなこと普通ではありえないと言った。宇野先生としても、僕の診察は、患者さんというよりも、僕も僕なりに躁鬱研究を進めているので、それを最大限尊重しつつ付き合ってくれている。こんな診察なかなか存在しないと思うので、とにかくありがたい。

 僕としては今、穏やかでいられているのは、いのっちの電話をやめて、twitterもやめたからだと思うと伝えたが、宇野先生はまた違う見解で、もちろんそれはそうなのだろうが、それよりも子供たちとの間で、何か関係が変化したことが大きいのではないかと言った。それは鬱の時に、僕は子供たちとの関係について悩みを話すからで、鬱の僕は、父親である、ということをかなり気にしているとのこと。自分でも戻ってきたら、そのことをすっかりと忘れてしまっているが、僕は鬱の自分を子供たちに見せることができない。自分が狂気に陥っているように見えるので、その姿を見せると取り返しのつかないことになるのではないかと不安になっている。しかし、アオとゲンは僕が鬱の時、「パパ、一人で大丈夫なのかな? アトリエで寝ないでみんなで寝た方がいいんじゃない?」と言っているとフーは言う。それはとても嬉しいし、いつも泣きそうになるのだが、どうしても、僕は自分が鬱の時の姿を見せることができない。でも、今回の鬱明けてから、それが少し変化した。僕は自分が鬱の時にどうなっているのか、何をしているのか、どんな気持ちになっているかを正直に話してみた。その時、すごく理解してもらえたような気がした。そして、アオとゲンが、困っている時も一緒にいる方がいい、ゲンに関しては、お前がいないと退屈だから、もっと一緒に遊ぶぞ、みたいに言ってくれて、僕の心が開いて、今度、鬱になった時は、みんなで過ごしてみたいと生まれて初めて思えた。そこから、僕とアオとゲンの関係はもっと、楽になったと思うし、開かれて、心地よくなった。アオとゲンが喧嘩する姿もほとんど見なくなったように思う。ゲンが拗ねたりする時間もずっと減ったように感じる。ただもっと一緒にいて、時間を過ごして、ただ楽しく遊べばよかっただけだったのだ。僕は元気な時はずっと遊んでいるが、でも子供たちと一緒にいることよりも、外向きのエネルギーを出すことに夢中になっていた時もある、それでもまだ毎日一緒にいるからいいが、鬱になると、アトリエにこもってしまって、団欒ができなかった。そこをなんとか変えていこうぜ、と今回はアオとゲンが心を僕に開くことで、僕も素直になれたんだと思う。でも僕のこういう一見細かいようなこと、見逃してしまいそうなこと、それらを一つずつ、ついつい口に出して、家族みんなで、ああでもないこうでもない、と話をすることは、良いことなのかもしれないと思えた。一番近い人ほどついついこんな話はできなくなるからだ。ついつい僕は話してしまう。子供だろうが僕の心中をつい素直に話してしまう。でも、子供はなんでも気づくし、黙っていても、どうせわかっている。だから、話した方がいい。話せば、お互い知っていると安心する。そうすると子供たちも心を開く。これでよかったんだ、と思いながら、先生とはまた2週間後、会うことにした。2週間後、僕の精神状態は真ん中を少し下り、いわゆる0地点に向かっているはずだ。そこで拗らせたり、無理をしていると、鬱で苦しむマイナス期間が深く始まってしまう。そうではなく、うまくゼロ地点に着地してみたい、その時、1週間くらい、作ることを休んで、しかも安心しながらゆっくりできる、という休息の時間がくるのではないか。今回はそんな推測を元に、自分の体と付き合っている。こういうことを感じさせてくれているのも、アオとゲンのおかげだと思う。アオとゲンの素直さは、フーちゃんがどんなことも悪く捉えないで、まっすぐ見る、まっすぐ対処するという精神から生まれていると思う。だからアオとゲンも偏見なく、僕に起きていることすべてを見て、それが恭平だと思っている、とフーちゃんが言う。そのままでいてください、って。みんなありがとう。と思ったので、フーちゃんに電話して感謝を伝えた。