その2 自己評価が低いのではなく、もともと自分がない躁鬱人のための返事の奥義

 

 さてカンダバシの言葉(神田橋語録って検索してPDFをプリントしてね!)の一行目からインスピレーションを受けて長々と書いてしまいましたが、先に進んでいきましょう。
「(躁鬱病は)心が柔らかく傷つきやすい人たちに多いです。特有の滑らかな対人関係の持ちようは躁鬱病の証拠です」
 はい、僕もすぐに傷つきます。本当にちょっとしたこと、友人知人の何気ない一言で傷ついてしまいます。でもその時に傷ついたって言うことができません。なんというか、躁鬱人って気楽になんでも言いやすいんですかね。「なんだかあなたは小学生の同級生みたいな感じでなんでも話しやすい」と僕もよく言われます。心を開きまくってしまってるんですね。文字通り、心が柔らかいんです。すぐ変形する。僕になんでも言う人は、普段はそんなになんでも言う人ではないようです。でも、躁鬱人には言いやすい。これむちゃくちゃいいことだとは思うんですよ。ある集団があるとして、その中で緩衝材になっているはずですから。僕がいのっちの電話をしているというのもそれと大きな関係があると思います。心が開いているというのか、いや漏れ出てきてますから、すぐ人と合体します。自分と他者の境界が曖昧、もしくは全くありません。その人が抱えた問題を聞いていると、すぐにそれは自分の問題になり、もしくは僕がその人自身の心と合体し、その人になってしまい、どうすれば解決できるかみたいなことを、ほとんど自分のことのように関わろうと考えはじめます。
 これはとてもいいことです。社会にもいい影響を与えるはずです。しかし、柔らかすぎるんですね。柔らかすぎて、時々、その境界のなさが極まるときがあります。普通は家族と他人はある程度区別されてまして、他人のことには首を突っ込まないのが通例とされてますが、僕の場合、そういう誰かが作った区別というものがすぐ溶解してしまいます。2011年3月11日の大地震の後、新政府を作り、東日本から避難してくる人を受け入れるために、アトリエを解放したのですが、このときは家族のことをほとんど放置して、困っている人に対して全力を注ぎました。そうなると、家族の忠告はなかなか耳に入れることができなくなってしまいます。大事にしているものが何かわからなくなってしまうんです。でも、お天道さまくらいの視点で見たら、家族だろうが他人だろうが区別なしに、周囲で一番困っている人を助けるということは理にかなってます。いつもこんな状態が訪れます。集団にとってはいい影響を与えるかもしれない。でも近しい人にとっては何も聞き入れてくれないし、視界にすら入ってないと感じられてしまう。
 ある程度、気分がいい時にはこのように心が漏れ出て、他人との区別がなくなっていてもいいことが作用します。それはとても楽しいですし、躁鬱人特有の「ありえない偶然」がたびたび巻き起こり、奇跡も普通に発生してくるでしょう。しかし、それをやりすぎて、一番近しい人たちから離れていってしまうと、気づいた時には躁状態、さらには近しい人からの意見を耳に入れることができず(というよりも、耳に入らないということはありません、むしろその逆でむちゃくちゃ耳に入ってきます。それこそ心の声のように響きます。それによって心は変形し、傷つきます。だからこそ怒っちゃうんですね)、一体何をしていたのかと目が覚めた時には誰もいなくなっているということも起きてしまいます。
 じゃあどうすればいいのか。まずは灯台を決めておきましょう。つまり、どんなときでもちゃんと声をかけてくれたら耳に入れるという人を決めておくんです。家族だと近すぎるので、できるなら、家族ではない友人がいいと思います。僕の場合で言うと、毎日書いた全ての原稿を出版社の区別なしに送り届け読んでくれる橙書店の久子ちゃんです。あとは、この躁鬱大学の編集を担当してくれている梅山くんです。それといつも絵の個展を開催してくれるキュレイターズキューブというギャラリーをやっている旅人くんもいます。内訳は、生活全体のことは久子ちゃん、出版や表立った行動、企画などは梅山くん、美術全般は旅人くん。彼ら3人は近しい人ですが、近いようで遠いというか、いつも落ち着いて冷静な意見をくれる人たちです。損得関係もありませんので、もちろん久子ちゃんとは恋仲でもありませんので、他の余計な感情もありません。僕は彼ら3人の話はちゃんと耳に入れると決めてます。はじめは難しかったですが、そうすることがうまくいくコツだと経験しわかれば、躁鬱人は持ち前の心の柔らかさを持ってますから、ぐんぐん吸収し、取り入れます。みなさんもぜひそれぞれの灯台を見つけてください。そういう人がいないんだよ、という人はすぐに09081064666に電話してください。とりあえず、仮おさえということで、僕が代わりに灯台になりますね。
 もう一つの方法はとても簡単です。とても簡単ですが、躁鬱人にはなぜか少し難しいことでもあります。それは「知らない人に声をかけない」ということです。例えば、海外からの旅行者らしき人が道端で地図かスマホのグーグルマップを見ながら、キョロキョロしているとします。はい、もうこの時点で僕は「この人は道に迷っているんだ、僕が案内してあげなくちゃ」と思ってしまいます。すぐに「ハロー!」と声をかけ「どこに行きたいの? 僕が連れて行ってあげるよ、え、そのレストランに行きたいの? でも僕とこの店の方がいいから、そっちにしなよ、それで食事が終わったら、この喫茶店とあなただったらきっとこの骨董屋が気にいると思うな、それでここのケーキ屋のチーズケーキを食べてもらいたいし、あ、あとこのバーで最後締めるのもいいから、うーん、僕、今日ちょうど暇だから、とりあえずレストランまでは連れて行って、あとは地図を紙に描いておくから、最後、そのバーで待ち合わせして一緒に乾杯しよう」というところまでいってしまいます。優しすぎるんですね。カンダバシもこう言ってます。はい、テキストの二行目の後半です。
「その中心には、生き物に対する優しさがあります。この優しさと気分の波のコードは、DNAの同じ場所に乗っかっているでしょう」
 確かに優しさは素晴らしいことですが、ここまでやってしまうと、疲れてしまいます。そりゃ相手も喜びます。誰も知る人がいない場所で、そんなに優しい人に接してもらったら、泣けてきます。僕もインドで金がなくて泣きそうになっていた時に、タバコとバナナをおもむろに渡してくれたインド人と出会って、しかもそのままその人の家に居候させてもらって、助けてもらったことがありました。しかし、躁鬱人としてはここはぐっとこらえましょう。「自分から知らない人に声はかけない」戦法で。もちろん向こうから「このレストランはどこですか?」なんて声をかけられたら諸手を挙げて案内しちゃいましょう。躁鬱人は誰に話しかけようか、と思いながら道を歩いているようなところがありますが、そうではなく「誰か声をかけてくれないかなあ」と思いながら歩いてみてください。それもそれで心地いいですよ。優しさをお漏らしちゃわないようにオムツ(声をかけないってことですね)しておきましょう!
 疲れてしまう、と書きましたが、この「疲れ」も「怒り」と同様、鬱状態になっていくきっかけの一つです。躁鬱病は気分の波から起こるわけですが、この気分の波はどのようにわかるかというと、僕の感覚ですが、躁状態は鼓動が早く、うつ状態は鼓動が遅いです。つまり、心臓で確認ができます。別に僕は医者ではないですから何の実証もありませんけど。でもそんなことはどうでもいいんです。別にお金をもらって薬を渡すわけではないんですから。何でもタダで試せるものは試してみましょう。自分で実験するってことが一番の薬です。僕の疲れの確認の方法は、心臓に焦点を当てて、しばらくじっとしてみるってことです。どうするかって、ただ横になるだけです。座るだけじゃ、立っている時とあんまり変わりません。横になって、息を吐いて、力を抜いてみる。躁鬱人はこの「力を抜く」ってことも意識してやらないと、ほとんどしませんので、ぜひやってみてください。気持ちがいいことは結局大好きですから、力を抜くことが気持ちがいいと体が実感すれば、できるようになります。気持ちいいと感じたら、それは疲れてるって証拠です。そのまま30分くらい、じっとしているのは難しいと思いますが、横になっていてください。もうこれ以上は無理と心臓が判断したとき、自動的に鬱状態に入ります。つまり、鬱状態は躁鬱人の体を守るためにあります。あなたにとっては不快極まりない鬱ですが、体にとってはとても重要な休息、充電期間です。だって、それが不快なものでなかったら、躁鬱人はまたぴょんと跳ね起きて、どんどん外に出て行って、知らない人に声をかけては困っている人を助け、何かとんでもないことをしたいって思っちゃうじゃないですか。そんなとき、体は傷つきやすい躁鬱人の特徴を見込んで、自信がない、自分なんてちっぽけな人間だ、価値がない、これから先のことが不安だ、つまり鬱的状態に電気信号を変換します。もちろん、これは僕の経験しか裏付けはありませんので、医学的見地ではありませんよ。でも、そうなんだろうと思います。しかし、鬱状態は諸刃の剣でして、体を一時停止し休息させるために引き起こされているのに、当の躁鬱人が完全にそれが本当のことだと誤解し、死にたくなってしまうということもたびたび起きてしまいます。だからこの躁鬱大学のように、躁鬱の技術と伝えていく必要があると僕は考えているわけです。
 躁鬱人は傷つきやすいわけですが、それは同時にあらゆることがインスピレーションになるということでもあります。カンダバシはそれを「心が柔らかい」と言葉にしているわけです。心だけじゃなくて、脳みそも柔らかいです。体も柔らかいです。人間関係も柔らかい。あらゆる物事が柔らかいってことです。どうにでも変形します。それは良くも悪くも色んな影響を引き起こします。ある人の言葉を聞いて、思いつき、新しい発想が浮かべば、躁状態へと少しずつ流れ込んでいきます。一方、その言葉で傷つけば、自信をなくし、鬱状態へと向かっていくのです。興味深いのは、そこに「自分がない」ということです。あらゆる評価の基準に自分がありません。常に評価の基準が他人です。「人からの評価ばかり気にして、自己評価が低い」なんてことを悩んでいる人がいたりするじゃないですか。そうやって悩むこと自体は否定しませんが、その人がもし躁鬱人なら、話は違います。なぜなら、それが躁鬱人だからです。自分の評価なんてものはありません。まずは他人です。他人から「すごいね!」と褒められれば「自分はすごい」ということになり、他人から「お前、ダメだと思うよ」とけなされれば「自分はダメなんだ」となり鬱になります。その時に、人から何と言われたって、俺は俺だ、みたいな思考回路はゼロです。でもそれが躁鬱人なんです。そんな時に「自己評価が低い」だなんて、どこかの下手なまとめサイトみたいなものにしか書いていないような言葉に惑わされてしまってはもったいないです。何といっても躁鬱人は「自他の境界がなく、あらゆる世界に対して心を開き、お漏らしして、困った人を助ける」ようにできている生物なのですから。何よりも最良の薬は「君はすごい」と褒められることです。それ以外の薬はありませんし、それ以外の満足感もありません。金も名誉もいりません。いや、金も名誉も君がすごいと言われたいがために求めます。とにかく自分がすごい人間なんだと自惚れることこそが、最高に幸せな瞬間なんです。そして、大事なことは、躁鬱人であるあなたが、そういう人間なんだと自覚しつつ、生きていくことです。それを知っていれば、もしも「あなたって自分に酔っているよね」とか「自惚れるな」みたいに言われても傷つきません。「あ、やっぱりそう感じますか? 僕はどうやらそういう特徴を持っているんですよね。人に尽くすんですけど、結局はやっぱりその行動で、お前はすごいって言われたいだけみたいなんですよ、でもそれで人が助かるんだから、いいかも? でもうぬぼれがひどい場合は、それでそれで問題だと思うんで、指摘してください!」ってな具合で返すことができます。しかしその特徴を知らなければ、もしくはその特徴が自分の悪い性格だと思ってしまっていると、そこを指摘された時に、本気で傷ついてしまいます。しかも、傷ついた時に、躁鬱人は辛くて泣いたりしません、その逆で怒ってしまうんです。要注意の「怒り」が出てきましたね。
 ここで鬱にならないためにどうすればいいか。怒りを感じないためにはどうすればいいかってことです。簡単にできるのは、一人になることです。人から指摘されなければ怒ることもないですから。しかし、よく注意して考えてみてください。躁鬱人は自分がないんです。人に接して、人から褒められてなんぼの、人が常に必要な自己中心的な人間です。文字で書くと、とんでもない人間に思えますが、大丈夫です。躁鬱人は持ち前の優しさがありますから、自己中心的さがオブラートに包まれてます。もちろん、この優しさも、本当に優しいというよりも、集団の中で褒められ大事にされるのは何よりも優しさ、心を開いてることが一番重要だと先天的に気づいているのかもしれません。そんな躁鬱人が一人になると、辛いです。はっきり言って退屈です。「人がいない一人で家にいて、あ、私って空っぽだなあ、何にもする気がしない」とか感じたことがありませんか? あれですあれ。躁鬱人は人がいないと機能しません。そう考えると、昨今流行りのウイルスみたいなところがあります。一人じゃ何も培養しませんから、増殖できませんから、退屈なんです。でもそれじゃ怒りは我慢するしかないのか。いやいや、我慢こそ、躁鬱の一番の天敵です。我慢すればするほど鬱になります。我慢なんかしなくて、何でも好き勝手にやって、天真爛漫に生きる、これが一番なんです。それじゃどうするのよ。ということで、僕はこうやって書いているわけです。つまり躁鬱人の特徴をちゃんと知って、自覚して、生きればいいってことです。そして、指摘された時に、即答できる返事のテンプレートをあらかじめ作ってあげばいいんです。それをただ口にするだけです(笑)。そうやって返事を覚えていくと、怒ることがどんどん少なくなっていきます。剣術の奥義みたいに、色んな返事を覚えていきましょう。なんといっても、躁鬱人は人と出会ってなんぼ、人と話して、人に優しくしてなんぼ、なんですから、常に人から影響を受けやすい状態下にあります。でもそのような多方面の滑らかな人間関係によって、体が楽になっているのです。その時に、怒ってしまうと、一度、怒ったところにまた行くと、色んなことを我慢しなくちゃいけませんし、気を使いますので、あの苦手な「窮屈」が襲ってきますので、鬱になってしまいます。せっかく心が柔らかく多方面に友達ができる可能性が高いですから、出来るだけ傷つきやすさを、インスピレーションの塊に変換していきたいですよね。そのために、こういう時に、こういう返事を、という言葉の技術を身につけていくといいですよ。そうすると、怒らなくなる。そうすると、多方面に広がるまたがる人間関係が培養されていくので、そうすると必然的に多方面から褒められるわけです。それがとにかく躁鬱人の栄養なんです。ということで、今日の講義を終わりたいと思います。今日伝えた技術を、ぜひ今すぐ試してみてください。