零塾

第4章 This is not a miracle

 2011年2月14日(月)。朝起きて、アオと外出。平兵衛公園へ。雪がまだ残っていたので、二人で雪だるま作り。
 家に帰ってきて、昼食を食べて再び外出。電車に乗って都内某所へ。改札口でプロデューサーの神さんと前田さんと待ち合わせ。今日は「TOKYO0円ハウス0円生活」映画化がいよいよ動く日。僕が送った図面を元に、実際に美術を組み立ててチェックしてみる。2007年の2月に始まった大プロジェクトがとうとう動き出す。まだ詳細は伝えられないが、必ずやこの日記を読んでくれている人々が、唖然とするような広がりのある、プロジェクトになっていると思う。自信を持ってそう言える。ファイトクラブの妄想でもあり、ショーンパーカーの妄想でもある。しかし、目の前には実際に動いている人々がいる。つまり、これは現実であるらしい。そこの判別が完全につかなくなっている。完全にストーンドしてしまっている。
 美術のチェックは順調に進められた。撮影は3月で決定。僕も経験なので、仕事をほっぽり出して泊まり込みで全日見たいと思っている。キャスティングも聞かされ歓喜。なにやらすごいことが起きそうだ。いや、起きる。その後、僕は何かに取り憑かれたかのように、今までフィールドワークしてきた事柄をプロデューサー、美術の人々に向かって、マシンガントーク。様々なアイデアが飛び込む。これはデジャヴであった。バンクーバーやナイロビやトロントで体験してきた、最高のスタッフたちが集結している高揚感。美術の若い人までも前のめりで話を聞きながら、アイデアを練ってくれている。日本では初めてのこと。僕は久々で懐かしかった。しかも、この感覚なら、体験してきている。かならずうまくいく。と、僕は確信した。
 前田さんに出会っですぐに言わないといけないと思っていた、映画「ソーシャルネットワーク」について話す。善き人のためのソナタ以来の衝撃だったことを伝え、カメラマンがブレードランナーのカメラマンの息子であることを言うと「そうですよ」と即答。やはりやばい。4月のヨーロッパ行脚か5月のロサンゼルス行脚のどちらかでデビットフィンチャーに会おうとしていること、そこで第二作目の映画原作「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」の翻訳を見せたくて、今、翻訳者を見つけようと準備していることなどを伝えると、前田さん開口一番、
「デビットフィンチャーは友達なので、私も映画ができたら一番に見せようと思っていたんですよ。なんで、坂口さんの口からデビットフィンチャーの名前が!」
 と有り得ない言葉が。やはりきた。ここで来るとは確信していたが、もう確変状態なのである。どんどん来る。前田さんはソーシャルネットワークの脚本家、プロデューサー、監督、三人と親しい関係らしい。前田さんは元々マドンナの通訳をやっていたという謎の経歴の持ち主なのだが、当時、マドンナと付き合っていたのがデビットフィンチャーらしい。って、普通に彼女の口から出てきているけど、こんな体験を日本でするとは思わなかった。次は絶対にハリウッド。この妄想が一気に現実味を帯びた瞬間だった。
 その後、僕と前田さんと神さんの三人で赤坂の韓国料理「兄夫食堂」へ。ここがまた謎の食堂で、完全に、異世界の入口であった。そこでも三人で映画の夢について語り、僕の夢について語る。このプロジェクトについての色んな情報も。僕が考えているよりも、さらにとんでもないベクトルを向いている、巨大な壮大な妄想のようなプロジェクトに成長しているようだ。僕は何も動いてないのに、動いていく。これからは、このようなムーブメントが続くのだろう。武者震い。しかし、怯んでいる暇はない。やるしかない。こうなったらとことんやる。
 詳細は後日、大々的に発表する予定。しばし待たれよ。
 その後、勢いに乗り、興奮し、また朝まで飲もうと算段していると、ふと今日がバレンタインデーであることを思い出し、そういえばフーアオがなにやらガサゴソしていたことを思い出し、ということで直帰する。ハヤシライスを食べると、チーズケーキが出てきた。フーアオが二人で作ってくれたらしい。美味しかった。ケーキには、
「いつもあそんでくれてありがとう アオ」
「いつも新しい世界見せてくれてありがとう フー」
 と書いたカードが刺さっていた。感謝。零塾生のベニオさんから頂いた、マクロビオティック健康媚薬であるマカ入りチョコを言われた通りに蝋燭を灯しながら食す。身体にエネルギーが漲る。ベニオさんのチョコは本当に世界を平和にするかもしれん。日頃、何か楽しいことないなあとお悩みの方はご一報を。マカ入りチョコがあなたを幸せにします笑。

 2011年2月15日(火)。朝から原稿。河出書房書き下ろし本。零塾について書き始めているが、坂上ちゃんからボツを喰らい、もう一度書き直している。もっと客観的に。僕には執筆の時の二つの流れがある。そのバランスを取るのが結構難しい。というか、それは自分の頭では分からない。ということで、僕は徹底的に他者からの提案に従う。そうしながら、自分を調律している。
 午後1時に国立駅前で渡辺さんと待ち合わせ。零塾面接。ナジャへ向かう。渡辺さんは二児の母。完全に僕の年上の方である。コーヒーを飲みながら、色んな話を聞く。様々な資格を取ったり、独自の方法論で子育てを実践したり、とユニークな日常を送っている。しかし、零塾生ってみんな「こんな人が日本にいたのねえ」と思わせてしまう固有っぷり。本当に普通の人間なんて人はこの世にはいないんだろうなあ。渡辺さんは現在、養護学校にて作業療法士として学童保育で働いている。自閉症などいわゆる障害者と呼ばれる子供たちと日々付き合っている。
 僕は以前、滋賀県で展覧会をした時に、自閉症と診断された男性と一緒に展覧会をしたことがあり、その人の芸術っぷりにすっかり虜になった。彼はテレビの前に自分で作った戦隊もののオリジナル人形を駆使しながら、ビデオデッキに気に入ったビデオカセットを挿入し、ずっと使っているものだからノビノビになっていて画面がブレブレになりながらも、それを無視し、映像に合わせて人形を使って寸劇をするというパフォーマンスをしていた。
 彼が障害者という概念は僕にはなかった。それは完全に芸術表現であった。しかし、それはまだ洗練された、じとっと極限まで切り詰められたものではなく、やはり解放的な表現であった。彼にラウシェンバーグのコンバインインスタレーションや、ローリー・アンダーソン、ジョニ・ミッチェルのShadows and lightやフィリップグラス&ロバートウィルソンの浜辺のアインシュタインなどを教え、もっと厳密に追求していけば、芸術な高度に洗練されていくのではないか、それをやったほうがよかったのではないか、と展示が終わり、東京に帰ってきて思った。その後、彼には会っていない。
 自閉症とよばれる人たちの絵や陶器などの作品をよく見かけることがある。しかし、僕は違和感を拭えない。どれも自分の思いをただ解放しているだけに見えてしまうのである。それではあまりにも直接的すぎる。芸術としては成立しないのだ。それは僕がいつも否定するアウトサイダーアート、アールブリュットになってしまう。それでは駄目だと僕は考えている。もっと知識を得て、実物の芸術を体験し、思考し、洗練させ、作品を作る。そのような過程がないと抽象的な具体物である芸術は生成されない。
 山下清の絵を先日、長野の山下清美術館で実物をじっくりと見る機会があったが、清は確実にそれを実践し、自らの芸術性を高める努力を続けていた。つまり、ちゃんと教育を受けていたのである。それこそ、僕は障害者と呼ばれる人たちに一番重要なものなのではないかと考えている。
 渡辺さんは、自ら養護学校の学童保育をする中で、障害者と呼ばれる人たちと彼らの両親たちとの関係性があまりうまくいっていないのではないかと問題意識を持っていた。それを少しでも良くしていくにはどうしたらよいか。それを零塾での目的にしたいと言う。
 そのためには、ある意味、その学童保育の中でも「零塾」的な教育法が必要なのではないか。
 その人に合った、その人だけに適する、歴史からちゃんと学べる教育を受けられるようにできないものか。
 僕はとりあえず、まずは僕自身がその学童保育へ出向いて、零塾について話し、それぞれと面談し、一番良い方法論を見つける機会を作るのはどうか、その後、それを渡辺さんがサポートしていくというのはどうか、と伝えると、ぜひ一度来て下さいとのこと。僕も零塾からさらにまた奥へ突っ込むことになるが、やらねばと反射的に思ったので実行してみることにした。
 どうなるか分からないが、それでも零塾と同じくらいのモチベーションと高い意識で向かえば、何らかの光は見えてくるのではないかという、思い込みかもしれないが、そういう直感に従ってみることに。さらに渡辺さんには参考文献をとにかく読み、まずは現在の症状への認識がどのようになっているが、医学的、社会的、芸術的観点から調査してもらうことに。
 その後、渋谷へ向かう。I AMといういつもお世話になっているファッションデザイナーのシミちゃんの事務所へ狩りに出掛ける。いつもTシャツを提供してくれ、今年の冬はダウンジャケットまでもらっちゃった。で、また図々しく、新しい服をもらいに。ウール100%のジャケット、シャツ、ウールのチェック柄のパンツ、リュックなどを収穫。シミちゃんのデザインがこれがまた無茶苦茶渋くてかっこよろしいのである。以前はコムデギャルソンでパタンナーをやっていたシミちゃん。なんでいつもくれるのだろう。ありがたい。また色んなところへ着ていって、せめてもの宣伝をしてきます。
 その後、神楽坂へ。麦丸で原稿を書き、ノブと徹平の家へ。鍋をつつく。音楽の話をする。21日にライブをするそうなので、行くことに。チケットまで貰っちゃった。また狩猟採集してしまう。
 その後、渋谷へ。Bar NOBORUで久々にノボルさんと会う。渋谷にある謎の熱帯バー。僕はここに来ると、なぜかいつもレーモンルーセルのアフリカの印象を思い出す。朝まで飲む。

 2011年2月16日(水)。朝、家に帰ってきたら、鍵を家の中に忘れていることに気付き、ということで、帰れず、ナジャへ。ナジャへ行く途中に若林さんと出会い、一緒にナジャへ。若林さんはナジャのママのケイコさんの元旦那さん。今は病を患っている。ケイコさんにいつも若林さんと話をしたらと言われたので、一緒に話をする。彼はロシアのバフチンの研究をやっている。といっても研究家と名乗っているわけではなく、独自に研究を続けている。もう60歳代なのだが、その考察は冴えている。そして、まだ一冊も本を出版したことがないのだが、なんか頭の中はありえないことになっているようなので、是非教えを乞いたいとお願いし、話を聞かせてもらうことに。いやいやスゴかった。最終的に、バフチンを主人公にした小説の話を始めて、今200枚書いている。それを僕がどこかの出版社へ持っていきたいと懇願すると、もうちょっと待ってくれ、夏で出来上がるからと言うので、待つことに。
 その後、ナジャへフーアオとフー母が来訪。もう完全にもう一つの家のような存在になっているナジャ。ゴレンジャーの秘密基地があった喫茶店のような雰囲気を勝手に感じている。幸福な時が流れる。僕はアオとバイバイして、多摩川へ。モバイルハウス製作。今日は白いペンキを塗り終わらせて、電気系統の配線をまとめる。ロビンソンの真骨頂があらゆるところで吹き出し、僕は本気で泣きそうになる。技術って本物を目の当たりにすると、心を揺れ動かされるのだ。そのような技術は今も実は僕たちが住んでいる都市のどこかでしっかりと存在している。しかし、ほとんどその存在が無いと人々は言っているような気がする。そういうときは、はっぴいえんどの「しんしんしん」の詩を思い出そう。
「街に積もる雪なんて 汚れて当たり前と言う そんな馬鹿な 誰が汚した」
 ぼくはいつもこの詩のフレーズを聞くと、胸が締め付けられるような思いがした後、とても勇気づけられる。
 ソーラーパネルも取り付けた。iPadも使える。なんだかとても素晴らしい家が出来たよ。これがこれから世界中にたくさん動き出すかと思うと武者震いする。やらねばならぬ。
 そのまま家に帰ってからはとにかく原稿を書く。仕事が溜まっている。しかし、頭は冴えているので、心配はしていない。フレーズが見えている。

 2011年2月17日(木)。河出書房から5月頃出版される予定の「TOKYO0円ハウス0円生活」の文庫版のたまのあとがきを執筆。良い文章が書けたのではないか。解説は誰にしますかと言われ、この本に一番反応してくれたのは、やはり赤瀬川原平さんだったので、絶対無理だと思ったが、赤瀬川さんは快諾してくれたとの朗報が。そういえば、今発売されているBRUTUS「桑田圭祐緊急特集」でも桑田さんが「感銘を覚えた本」の一冊に「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」を挙げてくれていたり、とにかくミラクルが起きている。
 そんな時、僕はベネチアビエンナーレのディレクターであったホウハンルゥに言われた「This is not a miracle」というフレーズがこだまする。
 これからも、もっと色んなことが起こるだろう。しかし、そこを奇跡と思ったら終わりである。奇跡はもっと先にある。もっと先に行かなくてはいけない。
 自分はその先に行ける人間なんだ、だから徹底して私利私欲を放棄し、突き進めと頭の上の僕がささやく。
 その後、熊本日日新聞誌上での新連載「建てない建築家」原稿を再び書く。2000字書いて送信。今度は一発OK。ということで、2月28日版の熊本日日新聞から連載始まります。初回はカラーで登場するらしい。小学校5年生の時に、一人で学校内で新聞を作っていたジャーナリスト時代に誓った「いつか新聞で連載小説を書く」という妄想が現実になった。連載小説ではなく、半生記になりそうだけど。だけど、小説を書くような思いでやろう。なんでもできる。ちゃんと思い描けば。だから思い描かなければならない。もっと先へ。イメージを膨らませろ。といっても、いつもみんな誤解するのだけれど、できないイメージは思い描いてはいけない。自分が実現できると思う、一番高いイメージだけしか実現化しない。という塩梅が重要なのである。
 その後、集英社「モバイルハウスのつくりかた」連載第8回目の原稿に取り掛かる。4000字書いて送信。やはり今日は乗っている。原稿がさらっと出てくる。話しているような感覚で原稿が出てくる。たぶんメディスンマンは心配するかもしれない。明日会うので説明してみよう。
 その後、アオと一緒に遊ぶ。アオが家を建てたいというので、協力して、生まれて初めての家を建てた。こういうことって、後の人生にとって重要なので、書き記しておく。照明も付けてあげたから、なんか雰囲気のあるとてもよい洞窟ハウスになった。モロッコ人のテントのようだ。
 その後、阿佐ヶ谷へ。河出書房ののうえちゃんと会い、ルノアールで打ち合わせ。書き下ろし本についてとあとがき「よかったよ」というありがたき反応。僕の周りの人たちって、あんまり僕の仕事で喜んでくれないので、喜んでくれるとすごく嬉しい。ま、そういうふうに乗せられているわけだろうけど。まあ、それでもなんでもいいが。
 とにかく二月中、三月の撮影前には仕上げたいと思っている。しかし、書き下ろし新刊は年に一冊でいいなと思った。何冊も書くなんてことは僕の場合必要ないなと思った。別にお金を稼ごうとして本を書いているわけではない。お金は別の方法で簡単に稼げる。本はもっと違うベクトルを向かせていきたい。
 そして、阿佐ヶ谷ロフトへ。今日もトークショー。今月はとにかくトークショーが多い。僕としてはアルバイトと思っているので、なんでも受けている。それと同時に緊張感を保つ役割も持っているし、当然ながら思考する練習にもなっている。インプットしたものはその都度同じだけアウトプットしないと、実は身体に染み込んでいないことにようやく僕は気付けたので、徹底的にインプットアウトプットを同時に同量やることにしている。そうすると、やはりそれが思考に反映するし、原稿に乗るし、人との対話でも生かされる。
 そういう意味では僕と磯部涼との終わらない対話はとても重要なのである。僕はこいつを知ってから、確実にありえないほどの成長している。僕の中では、二人で話していることは今までのどんなトークショーよりも面白いのだがなあ、と思っている。ちゃんとトークショーを企画する人は、磯部涼を司会にもってくるという全うな思考をしたほうがいいと思う。司会がつまらんとトークもつまらん。磯部涼というのは、みんな音楽ライターと思っているようだが、実際は違います。これは僕の妄想でもあるが。彼はプロの司会者なのである。媒介者、仲介者なのである。そして、人は大抵、そういう職能の重要性というか、それこそが必要なのだということに気付いていない。DOMMUNEの僕の番組も司会者がしっかりとしているから番組として成立している。だからこそ8000人くらいが観る巨大なトークショーにもかかわらず、今も続いているのだ。ということで、ちゃんとトークショーには磯部涼に司会を頼みましょう。たぶん、彼はそういうこと言われても嬉しくもなんともないと思うが。
 今日のトークイベントはシェアハウスの住人たちが来て、プレゼンして、それに関して、僕や山下陽光やらが、反応する、ということだったが、司会者が似非原くんという初期設定がまず完全に間違っていて、なかなか大変ではあった。僕としては面白かったけど。似非原くんは司会なんかしても全く面白くない。だって考えていないもん。それよりも彼がやってきた路上生活の話、生活保護の話など、むしろパネラーとして体験談を話してほしかった。ということで、これは企画段階のミス。主宰者に問題があった。まず、どんなトークでも始めに会ったら、主宰者はみんなを自己紹介させて、そして、紙っぺら一枚でもいいから当日の進行をみな渡し、そして、進行について打ち合わせを30分ほどするべきだ。それをしなければ、大抵不思議な議論になってしまう。いい例が、僕と茂木健一郎さんとトークイベントである。あれも何にも主宰者が準備していないもんだから、せっかく興味深いセッティングだったのに、ただの喧嘩になった。僕としてはとても反響があり、宣伝になり良かったが、相手の茂木健一郎さんは泥酔しているは、暴言を吐くはで、ちょっとUSTREAMで放送するには可哀想だった。ぼくとしては怒っているよりは、心配してしまった。案の定、あれ以来(かは分からないが)、茂木さんがテレビで出ているのをほとんど見ていない。(ただ僕が見てないだけかもしれないが)。企画者はそういう責任を負って欲しい。ということで、考えさせられたトークイベントであった。でも、楽しかったよ。僕は。どんなものでも、いいところを見つけるのは長所なので。

AO HOUSE 2011 by AO+KYOHEI

 2011年2月18日(金)。朝から起きて、メディスンマンのところへ。最近の近況を話す。現実に起きていることがほぼ妄想と同等になっていることを指摘され、精神は大丈夫か?と聞かれるも、フーからは「一応平静を保っている」と言われましたと情報を提供すると、もうちょっと様子を見ましょうということに、ただ調合されている薬を今、全く飲んでいないと言うと怒られた。しかし、それで平静を保てているということは、また新しい感覚が植え付けられようとしているのかもしれないということらしい。もうなんでもいいが。とにかくやる。身体には気を付ける。最近、色んな人からメールが来るが、その時にみんな「身体に気を付けて下さい」と最後に書いてくれる。それほど心配されているのだろうか。自分では大丈夫だと思っていると言うと、フーに手を振られ「自分じゃ絶対分からないから、他者の意見を聞け」と言われたので、それに従う。個人事業「坂口恭平事務所」のアルバイトでもあるフーは、アルバイトというよりも、もはや社長であるかもしれん。零塾の塾生でも面接時に「フーちゃんに会いたいです」という人もおり、もはや僕の仕事という概念すら無くなっている。それを僕は素晴らしいことだと思う。フーは僕の本を読んだことがない。しかし、僕よりもよく知っている。なぜなんだ。零塾のゴッドマーザーはフーちゃんです。
 その後、家に帰ってきて、今日トークショーをする相手の映画監督入江悠さんの「SRサイタマノラッパー」を観る。うまい。これが商業的にも成功し、しかも海外でも評価を受けている。これは意外と話が合うかもしれないと希望を持った。
 その後、西八王子駅へ。東京都立八王子拓真高校へ。友人が教えている授業に潜り込んで、お忍びで講演会を開く。夕方から授業がある二部のクラスでやったのだが、これがびっくりした。僕が彼らの前で話そうとすると、まず三分の一が机にひれ伏し寝ている。で、隣の机では8人ぐらいが集まってジャンケンをしている。歩き回っている人もいる。ギャルが三人で笑いながら世間話をしている。ギャグかと思ったが、どうやら本気でやっているらしい。僕は久々にびっくりした。高校って、今、こんな風になっているか。時間は40分。こりゃやるしかない。僕はとにかく講演を始めた。
 0円ハウスについて話すが、やはり全く反応がない。しかし、何人かは自分の家について考えているような発言をしてくれた。で、次に零塾の話をした。君たちは、もう高校二年生。とうことは来年には就職か進学かを選ばないといけない。だからこそ、今、真剣に「考えないと」いけない。だから、徹底して調べろ。自分がやりたいと思うことが一つぐらいはあるだろう。それを見つけたら、無思考でやるのではなく、徹底して調査して、新しい道を見つけろ。というようなことを今までにないくらい、僕も必死に話した。大声で。
 すると、一番前で寝ていた女の子が頭をあげた。そして、何人かは目が合うくらい真剣に聞いてくれた人もいた。気付いたら40分がたっていた。僕はありえないほど消耗していた。みんなは僕に話をかけることもなく、ほとんど目が開いていないのではないかという子もいたが、教室を出ていった。
 友人と話した。彼女は僕の高校の同級生である。
「坂口くんに、この現場をぜひ見てもらいとも思っていたの」
 今日は本当に衝撃的であった。一体、僕は誰のために本を書いているのかと気付いた。自分のことを理解してくれる人のために書いてどうする。自分の話を聞いてくれる人に話をしてどうする。もっとその幅を広げろと頭の上の僕が叫ぶ。何を今までやっていたんだ。現実はそうではない。そして、僕はこういう現場でもとにかく話をしていても、傷つけられるようなプライドは持っていない。なんでも来いと思えた。でも、最後の一瞬だけみんなが顔をあげ、話を聞いてくれた3分くらいは、僕に希望を与えてくれた。続ければ、いつかちゃんと耳に届くのではないかと思った。
 しかし、同時に現在の教育制度にも疑問を持った。なぜ、同じような状況の子供たちが一緒に集められているのか。彼らは一見すると、健康な子供たちに見えるが、歩き回っていたり、話を止められない子たちは、あきらかに多動性の症状のようにも見えた。目を見ていると、自律神経が傷んでいそうな子もいる、常に眠い子はおそらく眠れないんだろう。僕は高校時代、保健室にしかいれない人にプリントを持っていくという謎の仕事をしていたのでよく分かる。リストカットしている子もいるのではないか。そういうと、友人は修学旅行の班決めだけでも、まったく決めることができずに、リストカットのような素振りをした子までいたという。これが現実である。偏差値で高校が割り振られているため、偏差値が高いところではこのような現実は知ることができない。僕が気になったのは、職員室で先生たちが「あいつらは」と何気なく、言っていたことだ。しかし、僕が入っていっても、それは異分子になってしまう。どうしたらいいのか、友人にまた来たいとだけ伝えた。彼女は大変だろうが、とにかく必死に教育を実践している。このような人々たちの現状を僕たちは知らないといけない。自分の理解者だけに表現をしていて、何が作家だ建築家だ建築探検家だ。僕は自己否定を続けている。くだらない。僕はもっと知らないところへ身体を持っていかないと駄目だ。そうやって成長しないと駄目だ。無意識に人間を分けて考えている自分がいる。そのことに気付けただけでも、僕にとって今日はとても創造的な時間だった。
 さすがに連れて、煙草も吸えないので、学校を出て、道端で煙草を吸っていると、下校中の学生の一人が僕の方をちらっと見た。
 クラスにいた男の子だったので、声をかけてみた。すると、彼は開口一番、
「おれ、自動車整備工になりたいんだ。それでいつか起業するんだ」
 と言った。僕は驚いた。今日の話、面白かったよとも言われた。よし、いいじゃないか。
「整備工になるなら、どこで勉強するの」
「工学院に行く。あそこなら確実に就職できる。でも、本当の目的は起業なんだよ」
「いいねえ。でも機械の職人的な技術ももちろん必要だが、絶対英語は勉強しとけよ」
「なんでだよ」
「日本は車を作らなくなるよ、車に対してのアイデアは売るようになると思うけどね。作るのは中国だろうし、シンガポールとかものってくるんじゃないのかな。アフリカもやばいくなってくるろうし」
「ほうほう」
「ということで英語をやっとこう。あとコンピューターね。機械と情報を完璧にミックスさせて新しい仕事を作れ」
 と、二人で熱く仕事について話し合った。プチ零塾がそこで行われた。彼は素直に聞いてくれた。
「また来ていい?」
「いいよ。来年もおれら同じクラスだから」
 僕は友人について聞いてみた。
「あの人は本当にがんばってるよ。おれは分かっている」
 やっぱり希望はある。絶対に見捨ててはいけない。カットしてはいけない。色んな物事をちゃんと落とさないように抱え持つことが重要だ。
 色んなことを教わった40分だった。
 その後、渋谷へ。今日は青山の月見ル君想ウにてトークショー。連日ですが。僕とtomadと佐藤雄一さんと入江悠さんと四人で。主宰者の武田くんはちゃんと紙もあったし、打ち合わせもあった。今日はうまくいく気がした。Ustreamをするというので、ギャラ倍にしてくれたらいいですよ、というと倍にしてくれた。しかも皆の分。ということで、これからもみんなUSTREAMするときはギャラを倍にしてくれと要求しましょう。それでなければ、やらないほうがいい。
 トークショーは、今日はバッチリであった。なかなかレアな集まりだったが、スゴいよかった。
 その後、バンドを見て、恵比寿へ行き、磯部涼と二人で飲んで、また議論して、帰って行った。
 なんという一日だったのだろう。

 2011年2月19日(土)。仕事を昨日までに締め切りを間に合わせたので、今日はゆっくり。家でエココロの連載「家をめぐる冒険」について考える。今回はリースクラッチプラリーのブラックアークスタジオについて書こうかなと考えている。スペクテイター編集長の青野さんから送られたリーのスタジオのポパイの記事をみながら、太田出版の北尾さんから貸してもらった本とDVDをチェックなどする。
 お昼から家族で国立駅へ行き、ナジャで今日は零塾ではなく、フーアオとゆっくり珈琲飲みながら談話する。
 夕方から一人で外出。新宿駅にて弟である亮太と待ち合わせして、桜木町へ。にぎわい座にて岡崎藝術座の公演「街などない」を観る。これが面白かった。妄想、空想なのだが、ちゃんと着地しているので、僕たちは頭の中の空間を自由に飛び回ることが出来た。最後のオチがあるのだが、それは必要ないのかもしれないと思った。後、チェルフィッチュは身体の表現の限界性まで追求した後に、空間の表現に向かっていったので、身体がしゃんとしたまま、ある種の身体の自由さを伝えられたが、今日の公演は身体の表現性について、少しブレがあるような気がした。
 その後、亮太と二人で近くにある紹興酒店という名の中華料理屋へ行くが、ここが美味くてびっくり。しかも、その後、偶然にも岡崎藝術座の主宰者である神里雄大くんが来たので、先述した感想を述べる。しかし、全体を見ると、とんでもなく伸びしろがある表現をしている。こういう人間が、しかも年下で作り続けていることに興奮している。やはり、それは観に行かなくてはいけないのだ。教えてくれた梅山景央に感謝である。この大変な社会状況の中、様々な表現者たちが必死にものを作っている。それを見ない理由があるだろうか。僕はないと思っている。現場に足を運ばなければ。そして、真剣に考え、そこで受け取ったものを直接伝える必要があると思う。神里くんはスゴい劇作家、演出家になっていくのだろう。そういう現場観というものが今、とても重要なのだ。お金とか時間とか気にせず、とにかく追い続けることを止めてはいけない。僕も同時に表現者であるのだが、自分の手柄よりも、他者が作り上げたものに興味を持っている。そういうものと真剣に対面することが自分を成長させる要素になるのだと確信している。
 その後、電車で帰ってくるも、当然のように眠ってしまい、豊田駅からタクシーで帰ってくる。

 2011年2月20日(日)。今日はアオと過ごす日。昼過ぎに外出し、アオと二人で新宿にあるプークという名の人形劇場へ。「ねずみくんのチョッキ」と「うさぎの学校」という公演を観る。アオも興奮していたが、僕も感動してしまった。僕は小学生の時から定期的に子供劇に通っていたが、レーモン・ルーセル的興奮は今も変わらずにある。その後、フーと合流し、アオを任せて東口へ。
 フランス人のキュレーターであるアントニンと待ち合わせ。らんぶるにて打ち合わせ。今年の5月7日にロサンゼルスで開催される展覧会に参加するよう要請を受ける。どこにでも出向いてあらゆる批判、批評を受けたいと思っているので、快諾する。オランダで二週間リサーチをした後に、ロサンゼルスで展示。その過程で映画監督のデビットフィンチャーに映画二作目のプロットを見せるという妄想のような企画も勝手に盛り込んでいる。日本ではなかなか僕の仕事は誤解されがちなので、やっぱりここは国境を揺さぶっていこうというのが、僕の考えである。電子書籍出版社の社長である内藤さんも頑張ってくれている。ここは僕も奇跡を起こさねば。
 その後、品川駅から新幹線に飛び乗る。零塾の塾生であるなつめさんからの連絡があったからだ。上関原発の是非について考えているなつめさんからのメールには、明日の午前6時に中国電力が海上保安庁と一緒に、原発建設に向けての工事を強制執行する旨が書かれていた。心配してなつめさんに電話。彼女はすぐに祝島へ向かうという。そこで僕が傍観していていいのか。それはノーだと思った。百聞一見に如かず。僕も現場に行かなければ。とにかく口やネットで色々ほざいていても仕方が無い。とにかく事実を知るために、山口県へ直行することに。
 のぞみに乗って、今日は広島県の尾道へ。いっとくグループの社長である大将、山根浩揮と出会い、居酒屋で飲む。彼も一緒に祝島へ行ってくれることに。とにかく現場を知らないと、実はこのソーシャルネットワーク時代ではやっていけない。僕には時間が余るほどあるので、向かうことに。今日は大将の家に宿泊。山口と言えば松下村塾、吉田松陰。次いでに見れればいいと思っている。強制執行なんて時代遅れな方法論をとろうとする、国に対して、冷静にちゃんと観察しなければいけない。僕にはイデオロギーなんて何もないけれど、ちゃんと細部を知りたいと思っている。明日の午前4時半に尾道を出発し、6時からの強制執行に備える。
 こういうことを教えてくれる零塾というものはやはり僕にはとても大きな価値がある。何が正しくて、何が悪いなんて僕には分からない。見たいのはただ事実だけだ。そこから何かが生まれる信じている。そのためには現場にとにかく身体を持っていくこと。それをせずに、あれこれわめいたって、何も変わらない。行動を起こすときがひしひしと迫ってきている。

 2011年2月21日(月)。午前4時半起床。twitterを見ると、午前6時から中国電力が作業を始めるかもしれないと昨日は言っていたが、なんと午前2時頃から始めているようだ。なんで夜、見えない時にやるのだろう。問題なく、法に従って実行していると言っているならば、お天道様が照っているときに堂々とやれば良いのに。朝から、胸糞悪い。しかも、300人ほどの 作業員が投入されている模様。彼らは、後に聞いたところによると、ALSOKなどの警備会社から派遣され、今日はどこで働くかも知らされていなかったらしい。もしも内紛などが起こったらこうなるのかもしれないと思った。
 大将の車で、鬼道から向かう。尾道駅前のレコード屋れいこう堂の店長と前ちゃんと四人で向かう。高速に乗って玖珂ICで降りる。そこでガス欠で車が停まるというありえないハプニング。JAFを呼ぶため30分足止め。無事にガソリンが投入され、上関へ。尾道からでも車で四時間ほどかかる。山道を車で登っていく。終点で車を止めて、歩いて団結小屋へ。少し話を聞き、いよいよ上関原発建設現場である砂浜へ。
 ありえないほどの透き通った美しい海がそこに広がっていたが、現場は騒然となっていた。砂浜にフェンスを建てて立ち入り禁止にしようと試みる中国電力を阻止しようと、祝島に住むおばあちゃんたちや、反対している若者たちが、壁を作っている。黄色い服を着た作業員は、ヘルメットと無線を耳にはめ、攻撃すらしないものの、工事区域に立ち入らないでくださいと言い続けながら、引っ張り出そうとしている。
 昨日の塾生からのメールを見て僕は来たのだが、反対するこちらは100人いたかいないかぐらいの数。しかも、大半は祝島に住むおばあちゃん。そして、十代の人もいる若者たち。遠方から応援しに来た人はいるにはいたが、圧倒的な数にはなりきれていない。ここに1000人が集まれば、絶対に変化するはず。とにかく、現場へ行くように呼びかけないといけないと理解した。しかし、結構twitterなどで情報は回っているはずだが、やはり現場は少ない。さすがに日曜の夜から月曜までと一番来にくい時間だから無理もないか。
 アルバイトで何も知らされず来させられた作業員と反対派がせめぎあっているのを、ちょっと上の方から建設会社の現場長のような人々が眺めており、拡声器でやめなさいとよびかける。で、それを周りからカメラを回しながら監視する警察官。そして、ずっと後ろのほうで、敷地内から中国電力の社員たちがこの争乱を眺めている。
 僕も始めはそのどうしようもなさに怒りを感じてしまい、作業員の人間たちに目を覚ませと叫んだり、建設会社に公有地である砂浜でこんな作業をするのはおかしいと説明したり、警察になんであなたたちはこの争乱をとめないんですか、ぐったりしている人間もいるのに、もうこの争いをやめさせてくださいと言いよったりしたが、次第に理解してきた。
 これ、誰も悪くないのだ。何も分からず作業させられている作業員。警備員。中国電力から依頼されている建設会社からやとわれている現場長。現在の法律上ではもめていてても、警察は止められない。対立している傍観していると思っていた構図が、細部を見ていくと、実はちょっと違うことに気付いて来た。
 ただ命令に従っているだけの人たちと闘っているのは、とても苦しい。胸が締め付けられる。しかし、その人たちにしか向かっていくことができない。祝島のおばあちゃんたちは彼らに懇願し、反対派の若者は涙を流しながら、手を合わせながら、彼らに工事を止めて欲しいとお願いしている人もいた。それを中国電力の人たちは傍観している。自分たちは柵の向こうで安全地帯で監視している。しかし、そんな彼らも実際は自分の意志ではなく、他者からの命令で動いている。中国電力も国と協力しながらやっているので、中国電力だけのせいではないのかもしれない。一体、誰がこのようなことを仕掛けているのだろうか。頭の中で混乱する。
 塾生のなつめちゃんと会う。彼女は前線で行動していた。そこで僕も近寄って大声で「みんなの海じゃ」と叫びながら、中に入っていく。みんな深夜2時頃からずっと眠らずに行動しているとのこと。
 右側のフェンス作業が始まったので、止めに入ると、今度は反対側の左側のフェンスが建てられていく。そこでまたそこへ向かう。やはり100人では少ない。それでも、反対する人が協力して、どうにかフェンスが建てられるのを防ぐことができた。
 僕は見ていると、建設会社も本気で建てようとはしていないのではないかと思えて来た。それでも、命令されているので行動だけはしなくてはならない。形だけでも見せないといけない。しかし、本当は誰でもやりたいわけではないのだろう。なんとも言えない虚しい時間が過ぎていく。
 メディアの人も来ていたが、地方の人ばかりだ。もっと中央の人が来ないと全国ネットのニュースにはならない。NHKの記者に電話をして、呼びかけるも、地方に中央の人が行くにはかなりの理由が必要とのことで、僕がいや必要があると言い張っても、なかなか難しいと返答。何かが起きてからでは遅いと思うのだが。とても心配である。死傷者が出たら放送するのだろうが、それでは遅過ぎる。大変な暴動になってからでは遅過ぎる。もっと早く、現場へ出向き、事実だけを伝えるべきなのだが。こりゃ、人に頼んでいても仕方がない。自分のメディアで伝えていくしかないと自覚する。
 夕方ごろ、中国電力の社員が登場し、マイクで話を始めた。みんな固唾を飲んで聞く。そこで発せられたのは驚くべき言葉であった。
 なんと今日付けで山口地方裁判所が、中国電力が申請していた、反対派による妨害行為を禁止する訴えを認定した。これにより、反対派が砂浜に入って反対運動、行動をすることを全面的に禁止されたとのこと。もしもそれをやれば一人につき、一日500万円の損害賠償を要求すると言う。
 なんで、今日作業して、今日地裁から認定されるのか。裁判所というものも正当さはないのか。ちゃんと話し合うべき場であるはずなのに。しかも、一応法に従ってやっていることになっているので、それが決まれば事実上、こちらは文句を言えないことになってしまうのかもしれない。そこで、建設会社の作業は終了した。一体、何だったのだろう。今日は完全に向こう側からのデモンストレーションだったのである。
 帰りに、山道を登っていくと、もうすでに新しい看板が、各所に建っていた。そこには今日付けの山口地裁の決定のことが書いてある。ありえないくらいの迅速な準備だ。これは前もってやっていたとしか思えない。つまり、地裁の決定を始めから知っていながらの、今日の作業だったのだ。しかし、真実は分からない。どうにかならんものか。
 これにて今日の反対運動が終わった。おばあちゃんは筏にのって船に向かい、若者たちは団結小屋へ帰り、僕たちは車に乗って家に帰る。その後、塾生のなつめちゃんから連絡があり、やはり人々が帰った後、またひともんちゃくあったそうだ。そして、明日からかなり本格的な工事が始まるのだろう。とにかく、僕は持てるものを使って、自分なりの発信をしなくてはいけないと誓った。やはり現場に行くと、起こっていることがちゃんと分かってくる。そして、海の美しさも分かった。ここを埋め立てて、広大な発電所を作るなんて、馬鹿げていることは現場を見れば本当によく分かる。とにかく、何かしなければ思った人は、ぜひ一度現場へ向かってほしい。そして、現状を知ろう。「知る勇気を持て」とは「啓蒙とは何か」で書かれたカントの言葉である。
 帰り道、磯部涼に現状を報告。何かせねばと伝える。DOMMUNEで原発反対の番組をやりたい。そこに反対している表現者たち、反対派の若者など、できればおばあちゃんなどを呼んで、特別番組が作れないか。宇川さんにも相談してみよう。テレビでやらないなら、こちらはネットでやろう。そして、今、僕はメディアを持っているはず。自分の力でまずはやればいい。それからでないと誰も納得してくれないだろう。文句を言うなら、自分でやってみろ。本気でやろうとしているなら、自分でやってみろ。頭の中の自分が僕にそう呼びかける。
 12ボルトでやっている鈴木さんやロビンソンたちはどう思うのだろう。電気がそんなにいるもんかとぶち切れるだろう。ちゃんと考えないといけない。自分たちが電気を使っているのだから。そういう意味でも僕は自分の仕事に意味があることをさらに自覚した。さらに徹底して行動しよう。よかったことに、僕は何もスポンサードされていない。何でも言える。言えないことなどない。ちゃんとした問題を「問題」であると認識し、それに対して声を上げる。それは大変なことであるけど、同時に当然のことでもある。知りなさい、気付きなさい。徹底してこれを自分に言い聞かせる。
 僕はとりあえず一度東京に帰って、この現状を伝えれる方法論を考え、実行することにした。これを読んで、切迫感を感じてくれた人はぜひともすぐに現場へ駆けつけて欲しい。僕に連絡してくれたら、情報も少しは提供できます。明日からもっとすごい工事が始まると思う。来年の10月までが埋め立て期限なのだ。そこまでで埋め立てを制止できたら、原発がなくなる可能性がある。だからこそ、中国電力も焦っている。もう工事を始めないと、おそらくできないからだ。中途半端に埋め立てられて、そこで期限が来て、原発がなくなることも考え得る。とにかく、多くの人が現場へ行き、声を出さないといけない。チュニジアやエジプトに反応して、ソーシャルネットワークすごいと感銘したような人は絶対にいっておくべきだと思う。動く。知る。これこそ、これからの僕たちにとっての「生きのびるための技術」なのである。ネットじゃない。ネットはそのための道具なのだ。技術はあくまでも人間自身にある。

 2011年2月22日(火)。尾道の大将の家で目が覚める。昨日のことを反芻しながら、自分なら何ができるのかを考えている。反対派の人と作業員たちの朗らかな関係性もあった。仲が良い人とは、笑って話しあっているのだ。解像度を高くして、現場を眺めないとこのようなことは分からない。反対派でも、若者と、祝島のおばちゃんたちと、活動家のような人々たちとでは、少しずつニュアンスが違う。
 団結してはいるが、それぞれ抱え持っているバックグランドは違う。海に出ている漁船も、反対派と賛成派で旗の色が違う。賛成派は中国電力からお金を貰っているという噂もあるが、本当のところは当然ながら分からない。しかし、同じ漁船が対立している姿は見ていられない。そのような現状を見られたことはとても大きかった。しかし、議論する場所はここではない。もちろん、海に土砂が埋められているのを島民や上関の人々が黙ってみていられるわけない。なので、今後もこのデモはずっと続くだろう。しかし、この持久戦は苦しい。
 議論するのはこの場ではないはずだ。どうにか自分にできる手を練ってみる。現場へ行ってみてよーく分かったことは、むしろ反対派というのは、電力会社にとって何の恐くないということだ。反対されている限り、推進派に体当たりで抵抗してくる。それはとても都合が良い。中東などの問題とも関わってくると思うが、とにかく対立してもらったほうがいいのである。
 対立しないで、国民全員がそれについて考え始めたら、それこそ大変なことになる。むしろ、恐れているのは、国民が考えることなのである。是非でもなく、自然破壊の問題でもなく、原発を建てようとする時ならば「果たして、電気って一体なんなんだっけ?」と考えられることが一番まずい。その点、0円ハウスや都市型狩猟採集生活は、ある意味とってもまずい。僕はマンションなんて否定しない。コンクリートなんて否定しない。でも、家ってなんだっけ?と考えてもらいだけだから。
 しかも、今、僕は電気というものについて考え始めていた。モバイルハウスの話もそう。12ボルトで生活する路上生活者たちもそう。電気というものが実はそんなに必要ないということが分かってしまったら、一〇〇ボルトじゃなくて、12ボルトでも一人が暮らす分にはそんなに問題ってことが分かってしまったら、それは大変なことになる。自分がやってきた仕事が、もしかしたら活きるのかもしれないと思った。とにかく考えを促すような機会を作る。それこそが、一番効果がある行動なのではないか。そして、気付けばいいのである。自分が必要な電気量を。獲得方法をどうすればいいのか。路上生活者たちが太陽光発電で十分生活しているという事実を。
 ということで、決めた。もちろん、心中は反対の精神もある。とても賛成することには納得がいかない。それも正直なところ。しかし、電気は全ての人が必要なものである。ここは一つ、坂口さん、踏みとどまってちゃんと電気、生活というものを考えようじゃないかと頭の中の自分がよびかける。徹底的にみんなで考えよう。「考える」ということを促そう。そして、それぞれの答えを導き出すような機会を作るためのシンポジウムを開こう。「零塾」電気ヴァージョンをやろうと思った。
 DOMMUNEの宇川さんに電話。先述したような番組ができないかと打診。宇川さん、速攻で「やっていいよ」と返答。感謝。とにかく知識を得て、考えることができるような番組を作ろう。 僕も無知である。まだ何も分かっていない。直感に従っていることは確かだ。しかし、ただの直感では馬鹿野郎で終わってしまう。ただ反対!と叫んでいても、何も変わらない。その対立は、新しい傷を生み出す。ならば、ここはいっそのこと、賛成も反対もなく、こちらは中道に立って、詳しい人々たちをたくさん呼んで、現状を知ることができる勉強会のような番組にしよう。それなら、みんなもイデオロギーなしで、興味本位だとしても、有意義な番組になるはずだ。
 どうだろうか。もしも、何か意見がある人はアイデアを頂戴したいと思っている。僕は無知である、無力である。だからといって、体当たりしてぶっ壊そうなんて思ってもいない。これまでの仕事と同じように、徹底的に考える。ただただ考える。そして、最終的に自分なりの答えを出す。そして、それを勇気を持って表明をする。この今までの一連の動きをここでもまた実践してみようと思う。だから、本当に原発に詳しい人が必要だ。その人たちを、僕の専門であるフィールドワークによって考えてみたい。そして、ライフワークでもある電気や建築の問題を、原発のほうまで伸ばしていきたいと思い立った。僕は今のところ反対である。僕がフィールドワークしている路上生活者から学んだことを照らし合わせると、やはり電気の在り方について考え直す必要があると思っているからだ。しかし、同時に大きな視点でモノを見なくてはいけない。必要だと納得する部分もおそらくあるだろう。ならばどうするのか。とにかく、今は急速に答えを出すのではなく、考えるための要素をとにかく集めることが重要である。落ち着けと自分に言い聞かせる。でも、行動は必ずする。自分の名前を出して、責任持ってやることにする。ということで、坂口恭平企画の「原発について考えてみよう」という趣旨の番組をやることにしました。
 日頃一緒に仕事をしている友人たちに、電話をした。すると、東京でもtwitterを通じて、少しずつ広まっているようだ。友人たちも行動することに賛同してくれた。僕に情報を提供してくれている人もいる。これは何かの陰謀でも、国の横暴でも、お金というものに目が眩んでいる暴挙なのでもない、と自覚しないといけない。そうではなく、僕たちが考えてこなかったから、招いてしまった惨事なのである。ふたたび書くが、「知る勇気を持て」というカントの言葉が頭の中をとびかう。自分の持てるだけのメディアを駆使して、誰にも頼らずにやらねばならない。僕はテレビ関係の知人にどうにかできないか懇願してしまった。それは頼っている僕が悪い。責任を人に押し付けては駄目だ。自分は間違っていた。責任を自分で取らないと何も始まらない。僕は未成年状態を抜け出す必要がある。
 朝起きて、大将と奥さんのみさとちゃんとえっちゃんと天道の五人で尾道浪漫珈琲にて珈琲を飲みながら、しばし落ち着く。その後、尾道の坂の上のパラダイス「山手」で一昨年出会った友人たちと再会する。彼らは「空きや再生プロジェクト」というものに取り組んでいる。そこでの活動もかなり本格的になっているようであった。尾道では賃料0円の空き家がたくさんある。建築家志望の人間はぜひとも行ってみて自分でどのように再生するかを実践してみたらどうか。ここには強度なコミュニティがある。そこに触れ、活動している若い人たちに情報をもらいながら、楽しく実践をできる場所なんて、日本を探してもここしかないのではないか。しかも、ここは慢性的な人手不足でもある。若者にそのことを話したら、ぜひ来て欲しいとのこと。建築志望、町づくり志望の若者で尾道に興味をがある人間は僕にメールしてほしい。すぐに連絡を繋ぎますので。
 その後、広島焼きなどを食べて、午後3時過ぎに新幹線に乗って東京へ。仕事を溜め込んでいる。やらねばならない。しかししかし、この三日間の旅は自分のこれからにとっても意味のある日々だった。ターニングポイントにもなるだろう。さあ、東京へ着いた。じゃあ、お前はどうするんだ。行動できるのか。頭の上の方で、脳内師匠が問いかける。

10

 2011年2月23日(水)。朝から原稿。溜めてた原稿。終わり送信。その後、DOMMUNEの宇川さんと電話。3月3日に都市型狩猟採集生活第6話が急遽開催されることに本決まり。出演者について考える。なんだか、ここ最近、自分の持っているエネルギーが、ちゃんと自分が届かせようとしているところへいよいよ動き出そうとしているような感覚を感じる。毎日が蠢き、その間を人々が関わり、動いていく。
 僕は性格上、どんな状況においても失望することができない性質なので、メディアが無視しようがなんだろうが、僕が無名だろうがなんだろうが、金があろうが無かろうが、妄想と言われようが、進んでいく。その時に大事なことは、ちゃんと進むのだから、無思考でやらずちゃんと考えて行動することだ。時間が無くても、無いなりに最大限考える。でも早急にしなくてはならない。
 自分が動かなくてはいけないという時に気付いたときには瞬発力が重要になる。時勢を見誤ると大変なことになる。今がその時だ。スピードを上げて、着実に行動に置き換えていかなくてはならない。モバイルハウス、クランクイン間近の映画、そして今回のエネルギー問題。僕の中では一貫している。全てが繋がっている。いよいよ自分の力が試される時である。早く、でも落ち着いてやっていこう。NHKのエグゼグティヴディレクターの方に相談。テレビというメディアでも何か行動はしたい。しかし、よく分かる。今はその時期ではない。こちらはネットのスピードとは違う。着実に歩を進めていけばいつかきっと形になる。遅い、できないからといってテレビや新聞などのメディアを批判するのは簡単だ。しかし、それでは上関原発の賛成反対と一緒である。そこは闘うところではない。それぞれのできることをやればいい。
 みんなから言われる。「お前には自分で判断できるメディアがあるじゃないか」そりゃそうだ。DOMMUNEでやればいいのだから。そして、宇川さんも光速で快諾、実行してくれた。感謝である。動くと決めたときに、一緒に瞬時に動いてくれる仲間がいてくれるのは励みになる。明日中には番組の企画を決定する必要がある。ということでスケッチする。
 午後、外出。渋谷駅のスターバックスへ。電子出版会社社長のあいささんと打ち合わせ。来年、海外での映画公開に合わせて「TOKYO0円ハウス0円生活」の英訳版、仏訳版が同時に電子書籍で出版されることが本決まりした。こちらもこちらで光速で動いている。英訳の翻訳者はまだ決まっていないのだが、仏訳の方がまず決定したとのこと。ル・モンドで仕事をしている敏腕翻訳者であるとのこと。テンション上がってくる。本を読んでぜひやりたいといってくれたらしい。嬉しいかぎり。翻訳の合意書にサインする。
 この映画の企画は、僕の今までの仕事の集大成になってくると思う。日本だけでなく海外でも公開し、ちゃんと映画本場の中で勝負したい。そこに、出版も絡んでくる。美術も絡んでくる。僕が4月にオランダでリサーチをやるのも絡んでくるだろう。世界中の都市型狩猟採集生活をフィールドワークするきっかけにもなるだろう。もしかしたら、映画祭でギターで弾き語りするかもしれない。そりゃ冗談だが。とにかく今まで知り得て来た人脈を全て使い、有り得ないことを実現してみたい。僕の妄想に限りなく近いのだが、実際に現実の世界で、少しずつ実現している。中途半端な妄想を描いたら終わりである。飛距離を伸ばせ。自分も知り得ないような自分の可能性を生み出すようなイメージで行動していきたい。
 打ち合わせを終わらせ、隣のホテルのカフェで珈琲飲みながら原稿を書く。連載が止まっているのでやばい。しかし、ここで興奮してルーティンワークをおざなりにしては駄目だ。このルーティンワークこそが僕にとっての重要な筋トレなのである。常に興奮状態になると人はつい、目の前の仕事に取り憑かれてしまう。しかし、それではいけない。こういう時こそ、三年後、五年後のことを考えて、しっかりと連載仕事をやろう。とはいいつつ遅れている。電話して、遅れますと伝える。
 その後、ユーロスペースへ。上関原発現場で聞いた「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画を観る。このタイミングにびっくりする。そして、ここでも常にいつも現場で創作者たちが一所懸命作っているものを受け取る。僕が行くよー、と電話したら、磯部涼も梅山景央もすぐにやってきた。こういう時に一緒に動ける人間とただ身体を動かすように仕事をする。三人で映画に見入る。
 とても興味深い映画であった。上関原発建設に反対する祝島の人々の暮らしの映画でありながら、それだけでなくスウェーデンのエネルギー産業、政策についても触れてあり、ただ反対するのではなく、代替案を提案している。僕が得に共感したのは、スウェーデンは電力自由化が実践されているのだが、その中で出版社を持っている会社がエネルギー産業にも携わっていて、彼らの得意分野は企業の工場の省エネコンサルだったこと。90%も削減できるという。しかし、それではあなたたちは儲けられないじゃないかという質問に、副社長であるイケイケの女性が、
「何言ってるのよ。私たちは『省エネ』という行為を売っているのよ」
 という言葉を放った。電気という「商品」を売るのではなく、省エネという「行為」「態度」を売るのだ。これこそ、僕が今勝手に提唱している「アティチュード(態度)経済」なのである。僕の今の行動とも重なるところがあり、興味深かった。僕は0円ハウスだし、2万6千円のモバイルハウスだし、学費0円の零塾である。つまり、商品としては売ることができないものばかりだ。しかし、そういう行動を通して「考える」ということを売っている。それで専業主婦の妻と2歳半の娘を養うことは可能だ。別に大金ではないが、三人が生きていく分には十分である。
 しかも、僕の態度経済には保険(?)もある。つまり、収入が0円になっても大丈夫な仕組みになっている。収入が0円になる。僕は賃貸住宅に住めなくなる。よって、家族三人で多摩川で都市型狩猟採集生活をするようになる。そして、その実体験を作品化する。そんな人間、どこにもいないので、とても貴重な資料になるだろう。むしろ、そうなったほうが面白く、仕事も増えるに違いない。つまり、どうなっても飢え死になんてしないようになっている。それはとても強い。お金なんてあったらとても嬉しいけど、無くても、問題ないように生きるようにしている。だからこそ、僕は0円で生きる人間を取材し続けているといっても過言ではない。
 映画鑑賞後、僕と磯部涼と梅山景央の三人で、餃子の王将横の鹿児島居酒屋で飲む。そこで、DOMMUNEに出演してもらう人を決める。今日観た映画の映画監督である鎌仲ひとみさん。そして、映画の中で重要な役目を担っている日本のエネルギー政策について考え続けている、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さん。そこに多摩川のロビンソン・クルーソーが来てもらえれば大変なことになると思ったら、ロビンソンは体調が悪く、参加できないとのこと。とにかく、明日から鎌仲さんと飯田さんに出演依頼をしなければ。どうにか繋ぐ方法を考えよう。
 考え事をしながら、電車で知らぬ間に寝ており、起きたらまた豊田駅だった。何をやっているのか。

11

 2011年2月24日(木)。朝起きてパソコンを起動すると、たくさんメールが来ていた。何人か共通するメールだったので驚く。僕の先日の上関に行った日記を読んでくれた方から「ぜひミツバチの羽音と地球の回転という映画を観て下さい」という指令のようなメール。ありがたい。昨日観ました。なんだか、シンクロしているからやばい。そのメールの中の一件、広島の映画館、横川シネマの溝口さんに電話をかけてみる。「鎌仲監督を紹介してください。DOMMUNEに出てもらいたいんです」と伝えると、連絡先を教えてくれた。
 さっそく鎌仲監督に電話をかける。DOMMUNE出演を打診する。快諾。僕の活動を知ってくれていたみたいで話が早い。本当に早い。さらに、環境エネルギー政策研究所所長の飯田さんにもお願いしたいと言うと、聞いてみると言ってくれた。そして、そのメールも早く、出演快諾してくれた。その胸を宇川さんにメールする。ということで、3月3日の午後7時から都市型狩猟採集生活第6話を急遽放送することが決定しました。僕と磯部涼と映画監督である鎌仲ひとみさんと環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さん。代替案について考えるような建設的な会にしたい。もちろん、上関原発の現状についても話したい。それらを総合して、観てくれているみんなでエネルギーについて考えるような放送にしたい。乞うご期待。DOMMUNEは光速で反応してくれた。ソーシャルネットワークが稼働している。色んな情報をくれる方々にもお礼を言いたい。こちらはそれを責任持って実行するだけである。
 バンクーバーの原さんからもメール。5月に原さんがキュレーターとして働いている非営利ギャラリーCENTRE Aのチャリティーオークションがあるのだが、そこに僕は以前、マネックス証券会社の会議室の壁に描いた5メートルの巨大ドローイングを寄付することにしている。そんなでかいものを提供したことに共鳴してくれて、ぜひCENTRE Aで僕の個展をしたいとの依頼。スケジュール的にかなり危ないのだが、原さんが企画したものは毎回、ありえないミラクルが起きるので、やはり乗ることにした。バンクーバーには僕の作品のコレクターがたくさんいる。僕の立体読書とDig-italシリーズという0円ハウス系列ではない妄想ドローイング作品のほとんどは、バンクーバーのコレクターたちが収蔵してくれているので、作品ならバンクーバーにたくさんある。だから、オークションの前にせっかくだから色々と展示してみたらとの提案。とてもありがたい。この勢いだと、オークションにて5メートルの巨大ドローイングも無事に売れてCENTRE Aに恩返しができるかもしれない。ということで、快諾した。零塾始めちゃっているので、こういうところでちゃんと仕事をして、うまく財源を確保せねば笑。
 時期を聞くと、4月中旬以降5月上旬までくらいとのこと。4月上旬はオランダで路上生活者のリサーチ二週間なので、そのまま引き続きバンクーバーで個展。しかも、そのまま引き続き5月3日からはロサンゼルスでグループ展に参加することになった。ちょっと大丈夫かな?連載ものが心配だが、それもまた面白いことになるではとまた楽観的思考をしている。オランダにいる時はオランダの都市型狩猟採集生活を調査して描いてみるのもよい。スクウォットもハウスボートも調べたい。バンクーバーであればCENTRE Aの目の前がスラムのようになっていて、彼らのアイデアを尋ね回るのも興味深いかもしれない。ということにします。
 午後1時に、駅前で酒井くんと待ち合わせ。ナジャへ行き、零塾の面接。酒井くんは建築学科卒業の23歳。やりたいことを聞かせてもらうが、まだそれが抽象的なので、もっと具体的にして欲しいとお願いする。そして、まだまだ自分がやるべき仕事の先人たちの仕事を勉強していなかったので、とにかくこの一ヶ月は読書をしてもらうことに。彼はセルフビルダーとしてもやっていきたいようだが、同時にフィールドワークもしていきたいようだ。それなら、バーナード・ルドフスキーも今和次郎も吉阪隆正全集も重要だし、それこそスチュアート・ブランドやクリストファー・アレグザンダーやロバート・ヴェンチューリだって必要だろう。自分がやるべき方向性を海図も羅針盤も持たずに航海するのはおすすめしていない。
 自分にとっての「父」や「母」になる存在を見つけてくれと伝える。僕はあくまでも「兄」でしかない。僕の「父」は熊本のサンワ工務店の山野社長であるし、建築家の石山修武であるし、多摩川のロビンソン・クルーソーである。「母」はフーである。「姉」はバンクーバーの原さんである。「兄」は岐阜にいる写真家林さんである。それがなんだって言われたら、何も返せないけど、そのように僕は既存の家族制度の枠ではなく、独自に家族を構成するべきだと考えている。家族はたくさんいたほうがいい。
 その後、渋谷へ。東急イン地下にある落ち着けるカフェ、ハシュハシュへ。朝日新聞の矢部さんと伊藤さんと作戦会議。矢部さんからびっくりするようなことを聞く。矢部さんも新しく生まれ変わろうとしている。とても励みになる。現在のこの行動のダイナマイトに火を点けたのは矢部さんである。彼女が2007年2月、僕に突然、AERAで6ページ分ドンとくれたことが全ての始まりである。そこで蒔いた種がようやく育ってきたのである。他者の面白さに気付く人間でありたい、と僕が常々思うのは、僕がそうやって、ギブ&ギブ&ギブで育てられて来たからである。矢部さんとは、その雑誌以来一緒に仕事をするチャンスが来ていない。それはまだ時期が来ていないのだろう。それが来たときはどんな仕事になるのだろう、と楽しみである。
 その後、伊藤さんと二人で話す。僕の病状(?)について話す。とても興味深い展開であった。僕は双極性障害の疑いがあると診断されている。つまりは躁鬱病である。これはおそらく一生治ることがないそうだ。しかし、2009年から症状が安定し出したのだ。そこから僕の仕事の質が変化した。もちろん治ったのではない。日記を読んでいても理解できると思うが、波は当然ながらある。しかし、それを少しずつコントロールする実験を経て、今ではかなり意識的にコントロールすることができるようになってきた。それまでは、躁状態のまま創造活動をし、鬱状態の時にはずっと凹んでいたのだが、それではただの症状のまま生きることになってしまう。
 僕は自分のこの波をクリエイティヴイルネスという風に再認識することによって、改善を試みた。躁鬱のどちらの状態においても創造活動を続けることにしたのである。そのため、仕事の色はその時々で違う。しかし、それを解像度を高めて知覚していくことで、じつは躁鬱という言葉で現されるような、両極の精神状態にさらされているのではないということが分かってきた。上がるとか下がるとかではないのだ。それは横に、同一平面上に散らばっている。ちょっと右になってきたとか、左かな?とかそんな具合である。そうやって観ていくと、僕はこれが病気なんかじゃないことに気付いてきた。
 ただ自分の脳味噌の中に、思考の中に、様々なレイヤーが潜んでいることを知ったのである。このアイデアを使って書いたものが「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」という本である。人間には、ありえないぐらい一点集中することができるレイヤーもあれば、複雑に拡散し同時にいくつもの思考をするというレイヤーもある。しかも、それらがグラデーションになっている。で、まだ未熟な時は、自分の思考のレイヤーがただ一つだけだけと勘違いしてしまうのだ。うまくハンドリングしていくと、一点集中しながらも、同時思考できるというような、まるで3Dステレオグラムのような緊張と弛緩が合一した状態ができてくる。僕はあのステレオグラムが大好きだった。あれをやっているとき、中学3年生頃だったと思うが、ああ、落ち着ける空間が見つかったとほっとした記憶がある。その後、レーモン・ルーセルの小説や南方熊楠の南方曼陀羅を知ったときも同じような「巣」に戻ったような経験をした。
 ということで、現状としては、一点集中しながらも同時思考するという相反する癖をかなり意識的に分量を調整しながら創作をしている。馬に乗っているような感覚である。初心者は馬に身を任せてしまうのですぐに振り落とされるけれど、ジョッキーであれば馬と一体化して、状況に応じて鞭を打ったり、優しくなでたりして、その馬のその日の体調の最高のポテンシャルを引き延ばすことができる。僕の場合はけっこうな暴れ馬だったけど、今では精悍な顔つきをして落ち着いている。地方競馬でいい成績を出してきて、身体がいい感じに乗ってきているといったところか。
 自分を人間だと思うな。機械(マシン)だと思え。そう言い聞かせてる。デュシャン的ですが。
 まあ、健康な人にはなんのこっちゃわからんと言われてしまいそうなのでやめるが、別にこれは病気なんかじゃないのだ。思考方法に特徴があるというだけだと思う。そうやって、捉え直してみると、今、世の中で「躁」とか「鬱」とか言っているのはまずいなあーと思っている。ヒエラルキーで物事を捉えるのは、解像度が低すぎて、僕には退屈にみえる。もっと複雑なのになあ。身体の病気なのではなく、「考える」という行為の揺らぎなんだけどなあ。しかも、それがハンドリングできるようになってくると、とても効率よく思考、仕事をすることができる。
 僕は幼い頃ヤッターマンを観ていて、とても嬉しくなったことがある。それはヤッターメカが出動するとき、いつもサイコロ型のロボットがコロコロ転がって、出た目によって出動するメカが違うシーン。ああいう感じなのである。今日はどいつが出ていく?あたしが行ってきまース、のような。そんなこと書いていたらまた人は分裂症だと言うのだろう。人を病気というのも簡単だし、路上生活者というのも簡単だし、サラリーマンが自分のことを一般ピーポーですというのも簡単である。しかし、事実は違うのだということを、僕は自分の脳の症状、0円ハウス、零塾を通じて、それぞれ学んでいった。知れば知るほど、調べれば調べるほど、そこにはフラクタル状に広がっていく創造性を感じたのである。
 というか、そんな自分の話をしていても仕方が無い。鎌仲さんと飯田さんと磯部涼とロビンソンと電話で話し、DOMMUNE3/3をまとめる。ロビンソンは体調が悪く、残念ながら参加できないが、エネルギーについて「考える」、良い機会になると確信している。

12

 2011年2月25日(金)。映画監督の鎌仲さんに3月2日に開催される記者会見に参加するよう依頼を受ける。快諾。
 その後、電力会社の方と電話で話す。ちゃんと電力会社の考えていることも知らないと話にならない。エネルギーに関しては、もちろん何かの方法は選ばないといけないので、しかも、現状では電力会社が地方ごとに一社だけなので、電力会社の対応に必然的に僕たちは依存している。ということで、冷静な意見をもらう。もっと話を聞きたいので、近日中に会って聞かせてもらうことに。
 エネルギーに関して、路上生活者たちの生活というミクロの視点では調査を続けてきたが、広い視点からは全く調べておらず、無知そのものなので、ちゃんと現状と、可能性のある方法論に関して聞かせてもらおう。知らないことを知っていれば、知ろうと試みることができる。そのことを常に念頭に置いておかないと。
 スペクテイター編集部へ電話して、ツルさんに風力発電の現状について話を聞かせてもらう。南伊豆で実践されている風力発電。風力発電と言えば、なんとなくクリーンで一番良い方法のような印象があるが、こちらはこちらで単純ではないようだ。巨大な風車が回るときに発生する低周波音による、人体の被害が確認されており、それが問題になっているという。しかし、こちらも報道はほとんどされていない。ここも一度、ちゃんと自分の目で見ないと駄目だ。さらに、巨大な風車を設置するときにも、原発と同じように、自然環境への負荷があり、それもそれで問題になっているという。じゃあ、なんだったらいいのだろうか。太陽光発電も、ロビンソンは疑問視していた。ソーラーパネルの原料である半導体をつくるのに石油が必要なのと、広い面積が必要なのと、効率が悪い。路上生活のようなミニマムな生活であれば問題ないが、それが都市全体をまかなう電気になると大変なのだ。
 ならば、一体どんなエネルギーが考えられるのか。ロビンソンは、真顔で「海流発電だ」と言う。波力発電もいいが、海流のほうがエネルギーは巨大であると。日本では季節風が吹かないので風力は厳しい。しかし、海流ならある、と。そういう研究されているのか調べるのもよいかもしれない。0円ハウスからエネルギー問題へと関心が広がっているが、これはちゃんと繋がっている問題である。つまり、今回のDOMMUNEも来るべくして来たと言う感じ。
 夜、原稿仕事。小学館月刊スピリッツ「路上力」記念すべき第20回目。書き終わり送信。熊本日日新聞の新連載「建てない建築家」の第一回目のゲラが送られてくる。かなり大きく、しかもカラーで取りあげてくれている。ありがたい。この連載はとても楽しみにしている。新聞での連載は小学生の時に夢想していたことなので、しっかりと仕事をしたい。熊本の恩人たちへの返信になるような仕事にしないと。

13

 2011年2月26日(土)。塾生と電話で話し込んでしまい、結局午前3時ごろまで起きていた。寝過ごすのが恐いので、フーに起きてもらって(すいません)、しばし、布団の中で一時間眠る。起きて、朝飯を食べて外出。羽田空港へ。午前8時の便で高松へ。迎えに来てくれた香川大学の津島さんの車に乗って、高松市内へ。倉庫地帯がリノベーションされて洒落たスペースになっていた。その一つのカフェで珈琲飲みながら、打ち合わせ。今日は25名ほどの参加者が集まっているという。
 その後、会場となる「なタ書」という予約制の古本屋へ。店長の藤井さんと会う。午後1時から「出張零塾」開始。まずは一時間半ほど零塾についてのトークと質疑応答。その後、一人ずつ面接を行う。12人ほどの人が面接を受ける。一人30分ほど。それだけでも、360分。つまり、6時間。休憩無しでぶっ通しで実行。これ普通に考えたら、ただの危ない人だなと一人で苦笑い。しかし、零塾やっている時は疲れを忘れてしまうんだよなあ。もちろん、後でしっかりと疲れますけど。
 今回は面接時に僕がいつも聞いている。「社会に対する明確な問題意識」がまだ持てていない人が多かったので、とりあえず零塾入塾は保留にした人が多かった。今回、入塾したのは4人。しかも、全て女性。というか、今回圧倒的に女性の希望者が多かった。
 一人目は黒島さん。職業は情報デザイナー。小豆島出身で今も小豆島で生活している。オリーブオイルと醤油のソムリエをやりながら、ウェブデザイン、グラフィックデザインをやり生計を立てている。非常にしっかりとした人で、別に零塾でやる必要はなさそうだったが、彼女はさらにもっと小豆島自体を活性化したいと考えているようで、仕事を次のステージに持っていきたいと試みているようだったので、それを目的にするのであれば、零塾で協力できることもあるのではないかと思い、入塾してもらった。
 小豆島民が持っている、色んな物事を吸収し、それを加工して、産業にするという柔軟性をもっと活かしたいと思っているようで、それを引っ張っていくような仕事をしたいと。そこでオリーブオイルで町を活性化させることで、世界の中で一番うまくいっているところを探してもらうことに。さらに、小豆島と同じくらいの規模で、非常にうまくいっている町作りの方法論も調べてもらうことに。まだ27歳の若い女性だが、しっかりと行政も含めて、創造的に絡んでいこうと試みているのはとても興味深い。
 二人目は三村さん。彼女はつい最近、今までの仕事をやめて、香川県に出来た社員が二人の小さな出版社で働き始めた。しかし、自分は未経験のため、何も知らない。しかし、出版社で働き、香川県民が気付いていない香川県の良さを伝えていく仕事にはとても意義を感じている。まず、出版社というものが初めてなので、編集者たちの動き方もまだよく分かっていない。そこで、熟練の編集者たちに話を聞かせてもらいたいという。しかし、通常であれば、他の会社の編集者が三村さんに色んな情報をくれるとは限らない。なかなかアクセスもしにくいだろう。
 そこで、その編集者に教えてもらうと個人的な作業をもっとパブリックにしたらいいのではないかと提案した。つまり、編集者たちの仕事のインタビューをそのまま本にするのはどうかと。それだと、自分が知ることもできるし、さらに、本を読む人たちにも伝えることができる。自己実現だけでなく、そこに社会実現も含ませていく。それは面白いかもしれないので、ぜひやってみたらと伝えた。
 まずは、自分が心を動かされてた30冊を一ヶ月で挙げてもらうことに。その本を作った編集者たちにアクセスすることから取り組んではどうだろうかと提案する。
 三人目は香川大学の学生である沼野さん。アートを通した教育普及活動をしたいという目的を持っている。美術史研究を専攻しているが、夜間保育もやっていて、幼稚園児や小学生たちとイベントなども開催している。美術教師を目指していたのだが、学校という枠の中で教えるのではなく、もっと他の方法論があるのではないかと思っているとのこと。まずは、世界中の事例を調べてもらって、一番うまくいっていると自分で思えた教育普及活動を見つけてもらうことに。フィンランドで実践している例などもあるという。日本ではなかなかうまくいっていないのではないかと思うが、それも知らないだけかもしれないので、既成概念にとらわれず、全体的に調査してもらうことに。
 四人目は神山さん。彼女は現在、全く働いていないという。なのに、笑っている。このご時世、タフな人である。実行したいことは、馬に乗って公道を旅して、四国を一周し、様々なおばあちゃんやおじいちゃんたちと話をし、彼らが持っている独自の技術をフィールドワークするとのこと。馬に乗って公道を走っている人が四国にはまだいるのだそうだ。フィールドワークするときに、交通のことまで念頭に置いて実行するのは、ゼロから思考でとても興味深い。飛行機に乗ってアマゾンに行くのはどうなのかなと思ったりしていたので、とても共感ができた。今和次郎と宮本常一と彼女が興味を持っているという古事記に関する文献をまずはとにかく読んでもらうことに。
 その後、ろくろくというカレー屋で打ち上げ。ここのカレーが美味かった。その後、津島さんの家に。僕と津島さんと藤井さんと学生の山川くんの四人で飲む。午前3時頃まで。さすがに、全く寝ていなかったので眠くなる。山川くんと津島さんにダブルマッサージを受けながら、眠りにつくというスペシャルコースであった。感謝。とても楽しい高松ライフでございました。

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 2011年2月27日(日)。10時頃ようやく起きる。その後、車で津島さんと二人で讃岐うどん屋で肉ぶっかけの冷たいのを注文して食べる。その後、空港へ。空港の珈琲店で主宰者の津島さんも零塾の面接を受けたいというので、話を聞く。津島さんの取り組んでいるは無茶苦茶面白いので、とても楽しみである。しかし、それは零塾で先生と生徒という関係ではなく、もっとフランクに協力したいと思ったので、また色々と調べたら、メールしてよと言って別れる。みんな、つい教えて欲しいというのだが、本当は教えてもらわないがいいんです。自分で考えた方が。零塾にはちゃんと教えるという行為が必要だと思った人しか入らない方がよいと思っている。
 お昼すぎに羽田空港に到着。吉祥寺によって、バサラブックスでリー”スクラッチ”ペリーの伝記を発見し、購入し(セキネ、おまけしてくれて感謝)、家に帰って、読むも、すぐに外出。ギターを持って、青山へ。青山CAYにて友人であるササオの結婚パーティー。磯部涼やみねちゃんややぶのけんせいやれいなちゃんや空手やけんやや大原大次郎くんなどと会う。喧嘩してた佐々木中さんも来ていて、仲直り笑。
 乾杯の音頭と歌を頼まれていたので、アフリカソングと少女時代のGEEとスラックのHot Cakeを歌った。さすがにスラックまで歌ったのは長かったかな。二曲で十分だったな。勉強になる。しかし、今日のササオはやはり自分の結婚パーティーなので、甘々で「最高だった」と言ってくれた。ありがとね。おめでとね。で、その後はいつものごとくテキーラだけを飲み、クリスタルとケンヤのDJに合わせて、踊りましたとさ。とても良いパーティーだった。
 二次会は知らない人たちとカラオケへ。岡村靖幸の「真夜中のサイクリング」を歌う。三次会はワタミでササオたちとみんなでのむ。四次会はまたササオたちとカラオケへ。陽水&玉置の「夏の終わりのハーモニー」を歌う。午前4時まで。五次会に行こうと、磯部涼と佐々木中さんに誘われるも、疲れていたので、ローソンでおにぎり買ってくると言いつつ、帰宅した。

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 2011年2月28日(月)。今日は久々に家でゆっくりする。原稿。エココロの「家をめぐる冒険」なかなか書けず。締め切りを伸ばしてもらう。絵も描かないといけないし、こりゃ大変だ。路上力、原稿はオッケーとのこと。しかし、こちらもドローイングをかかないと。翼の王国の卓ちゃんから電話。僕とアオの旅行記みたいなの書いてとの依頼。たまにはファミリーっぽい仕事もいいでしょ、とのこと。快諾する。4月は、オランダかもしくはバンクーバーにフーアオを連れて行こうと思案しているので、その時のことを書いても面白いかもしれない。バンクーバーの最高の友人たちにアオを紹介したいものだ。原さんとバンクーバーでの展示についてメールでやり取り。
 親父から電話があり、熊本日日新聞の新連載「建てない建築家」を見たとの連絡。かなり紙面を割いてくれていて、喜んでくれていたので、それはとても嬉しい。どういう連載になるのか、まだ予想できないところもあるが、半生記の予定が、結構違うものになるのではないかと思っている。やっぱり今、自分の中の最前線でやっていることを書いたほうがいいだろう。河出書房の武田さんからメール。3月25日にジュンク堂新宿店にてノンフィクション作家の石井光太さんとの対談が決定したとのこと。詳細は後日、トップページにて発表します。石井さんは僕も気になっている作家の一人なので、とても楽しみである。
 まだ零塾希望者が増えている。そろそろ、締め切った方がいいんじゃないとはフーさんの言葉。第一期生とか区切ったほうがいいのかもしれない。たしかにそれはそうだ。でももう少し様子を見てみよう。昨日ふと思いついたことがある。香川大学の学生と話していて、さらに強く思ったことだ。みんな本当に大学の選び方がなっていない。誰も大学教授の名前をチェックせずに受験している。それでは駄目なので、たくさんの特色のある大学教授の方たちをフィールドワークした連載とかできないかなと勝手に思案している。そんな図鑑とかあったら高校生は喜ぶのではないか。
 夜、外出。新宿へ。新宿茶寮にてNHKの井上さんと零塾生のスズヨシさんと打ち合わせ。NHKでの取材の件。テレビの取材はやはり慎重にならざるをえない。井上さんと意見を交換する。今回は零塾の塾生も出演するので、そのことが頭にひっかかっているので、もうちょっと時間を置けませんかとお願いする。その後、スズヨシさんの零塾もやる。そして、帰ってくる。夜、ゲルに住むという目的を持っている、京都の河本さんと電話で話をする。土地がどうやら見つかりそうである。土日以外はずっと働いているのに、この行動力はすごい。不動産に提出するための企画書を二週間で書いてと次なる課題を提案する。

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 2011年3月1日(火)。今日は集中して仕事をする。小学館月刊スピリッツ「路上力」連載20回目。原稿とスケッチ。さらにエココロ「家をめぐる冒険」連載6回目。原稿とスケッチ。今回のスケッチはやばいよ。ぜひお楽しみ。
 その後、外出。千葉の津田沼へ。駅前で零塾生の渡辺さんと待ち合わせ。渡辺さんの車に乗って、彼女が働いている。障害者の子供たちが過ごしている学童保育の施設へ。小学一年生から25歳まで一緒に過ごしている。スタッフの人に挨拶し、みんなに挨拶し、僕も一緒に過ごす。渡辺さんの零塾での課題のために、僕もちゃんと現場を見て、知っておかなければと思い、実現した。
 それぞれの障害者たちの状況は違う。多動性があり、一言も発しない自閉症の子や、顔がとても特徴的な子や、自傷してしまう子や、本当にひとそれぞれであった。色んな症状が同時に起きていることが多いことも知った。しかし、僕は初めてだったにもかかわらず、彼らはとても友好的であったように、僕には感じられた。
 その中の一人、さやちゃんは17歳の女の子だったのだが、ずっと僕と手をつないでいた。僕の結婚指輪が気になるらしく、僕は指輪を指から離して、手渡した。そして、一緒にピアノを弾いて音楽をした。カシオの電子キーボードで、様々なボタンを駆使しながら、独自の音楽を作り出していた。彼女はほとんど話さないのだが、音は発していて、確実に会話を僕に投げかけていた。しかも、意味も分かる。僕と出会って、嬉しいように見えた。僕も嬉しかった。なんだか、僕は心の中がぽっと暖かくなって、こうやって、施設の中でゆっくりするのも彼らにとっては安心するのだろうが、僕は手をひっぱって、一緒に外へ出ていきたくなった。DOMMUNEにでも連れて行きたくなった。どこかの野外コンサートにでも連れて行きたくなった。僕の友人たちに会わせたくなった。フランチェスカ・クプカの画集を見せたくなった。一緒に沖島勲監督の「怒る西行」を観たくなった。そして、それをこれからやっていこうと思った。
 ゆうきという小学一年生の男の子とも一緒に過ごした。彼は多動性でしかも、全く会話をしない。しかし、とても聡明な顔をしているので、僕にはすぐに感じられた。この子は頭が良い。身体が動きたくてうずうずしているので、僕と激しい運動をした。しかも、身体が疼いているときは、僕の場合、創造的活動をするといいので、彼にもそれをと思うと、やはり彼はパズルが好きらしく、一緒にパズルをした。しかし、パズルはいつもやっているものみたいで(アオが好きなパズルと同じアンパンマンのものだった)、つまり、それは退屈なのである。ということで、新しく何かパズルで遊べないかと思っていたら、ゆうきはパズルピースの表面の印刷紙を剥き出した。それはすごいと思って、興奮してみていたら、スタッフの人に止められた。しかし、それも仕方がない。パズルはみんなのものだ。でも、どうにかできないかと思い、剥いても、またセロハンテープで貼れば元に戻るということを教えた。すると、それもゆうきはクリエイションと感じたようで、剥いてはテープで元に戻すということを繰り返した。それはねえ、クルト・シュヴィッターズという人がやっているんだよと伝える。いつか、分かってくれるかなあ。
 つまり、やはり僕が感じていた直感はほぼ確信に変わった。障害者と呼ばれている人にも零塾は確実に有用性がある。彼らは退屈している可能性がある。普通のことやらされても、何も面白くないのだ。つまり、僕と一緒なのだ(おそらく、僕にもある種の自閉性がある)。そういう人間たちがにはありえないくらい大変な、通常では不可能だと言われているような物事に取り組むことでしか喜びを得ることができない。ゆうきとさやちゃんの二人の子供と深く接したが、彼らにはそのようなプレッシャーが確実に必要だと僕は判断した。
 3時間ほど一緒に遊んで、渡辺さんに車で送ってもらって、東京に戻ってくる。本当によい経験だった。一回だけで終わらせることなく、頻繁に通うことにしようと思う。
 午後7時に電力会社の社員の人と会う。3日に放送する予定の原発問題について、電力会社の見解を聞く。彼はエネルギー消費量を抑える電化製品や電気システムの研究をしていたが、それが電力会社では絶対にやってはいけないことと決められていると言っていたのが、とても印象的だった。それこそ一番重要だと思うのに。しかし、電力会社の見解にちゃんと耳を傾けるのはとても参考になった。ただ原発を反対しても意味がない。ならば、どうするのか。そのことをちゃんと考えられた一日だった。
 翼の王国で5月下旬にインドネシアへ行くことに。これで、4月と5月はずっと、ユトレヒト、バンクーバー、ロサンゼルス、インドネシアと海外を移動することに。それはとても刺激的なんだろう。とても楽しみだ。

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 2011年3月2日(水)。午前中、原稿&スケッチ。仕事もちゃんとやりましょう。
 その後、外出。恵比寿駅で磯部涼と待ち合わせ。二人で、カフェパークへ。今日は映画監督の鎌仲ひとみさんが主宰する記者会見に参加する。モラトリアム・カミノセキと題し、工事を強行で進めるのではなく、まずはモラトリアム期間をもうけ、話し合いをしよう。そして、ちゃんとメディアは取りあげようということを表明した。僕も横に座って、何も言えませんが、態度は表明した。しかし、反対派という視点でしかモノが語られなかったので、ちゃんと伝わったのだろうか。先日、電力会社と話したばかりなので、そこらへんが気になった。明日のDOMMUNEではちゃんとそのへんも考慮して、色んな質問をする必要があると思った。
 その後、磯部涼と梅山景央と三人で、明日のDOMMUNEの打ち合わせ。楽しみだ。しかし、同時にリスキーでもある。僕は原発というものを考え始めて、まだ10日間しか経っていないのだから、何を無知な人間が口を挟んでバカヤローとか言われるだろう。でも、やるのである。知らないことを隠蔽せずに、知らないことを自覚して、ちゃんと勉強すればいい。そのきっかけにするのである。DOMMUNEの宇川さんはそのことを賛同してくれた。しかも、今一番エネルギー問題に、政策的に具体的に行動している環境エネルギー政策研究所の所長である飯田哲也さんが来てくれるのだ。何でも分からないことを聞く。しかも、一番聞きたい人に聞く。今回も僕のいつもの方法論を徹底して、通すだけである。そうすれば、何かが変わる。それを僕は体験してきた。恐いけど、ビビっていないで、とにかく動いてみる。しかし、体当たりは絶対にしない。向かっていくなら、喰われてしまわないように、徹底的に研究する。戦略を立てる。計画書を作る。企画書を作る。そして、臨む。
 午後6時半、新宿駅にて高松さんと会う。零塾面接。高松さんは高校二年生。この子が本当に面白かった。高校生で、漫才師を目指し、読売新聞の子供記者を長年担当し、ちゃんと原稿を書くということも鍛錬を積んでいる。核兵器の問題点についてを、学校の課題というきっかけをうまく転用し、論文に書いている。ノーベル賞を受賞した化学者である白川英樹さんに感銘を受けたなら、すぐに彼に学ぶ。塾に入り、そこで自ら研究報告する雑誌を作ろうと企画し、実際に実現させる。なんか、僕に似ているのかもしれない。この子は、確実に10年後は大変なことをするだろう。僕はそれに協力するだけだ。そして、もう自分は子供なんて意識を捨てるべきだ。ちゃんとプロとして、どうやったら、自分の考え方を社会に反映させていくかを徹底的に伝えることにした。漫才師になるということだけで、こだわるのではなく、もっと広い視点で、問題を捉え、笑いを駆使することで、人の心に届く、そして、解決へ向けての行動を促すような「仕事」を見つけるべきである。久々に気合いの入った人間に出会えて、嬉しかった。しかも、高校生。世の中は確実に動いている。志を持っている人間たちが確実に集まってきている。僕ができることを全部教えたい。希望に溢れた夜だった。

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 2011年3月3日(木)。朝からギターの練習。DOMMUNEのリハーサル。なんでも準備が肝心だ。番組での質問も考える。勉強する時に、一番参考になったのは、「炒飯 (genthalf)」というアカウント名でtwitterをやっている人である。彼はなんでもすぐに文句をいう、過激な人のようにtwitter上では捉えられているが、僕にとってはいつも目から鱗の素晴らしい知性の持ち主である。ということで、彼のtweetの履歴をほぼ全て見て、そこから、僕も共感したことなどを質問として、原発が必要ないという飯田さんに質問をぶつけてみることに。炒飯さん、本当に参考になりました。ここで、お礼を伝えたい。
 ジュンク堂新宿店で3月25日(金)午後6時からノンフィクション作家の石井光太さんとトークセッションをすることが決定した。申し込みはトップページからどうぞ。こちらはこちらでとても楽しみである。
 磯部涼と恵比寿駅で待ち合わせ。打ち合わせしながら、歩いてDOMMUNEへ。午後7時からDOMMUNEにて「都市型狩猟採集生活第6話」スタート。今回のゲストは映画監督の鎌仲ひとみさんと環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんを招く。2月21日に山口の上関原発に突如向かって以来、僕がトライする原発についての行動第一弾である。とにかく推進、反対、どちらでなく、現在の研究状態がどうなっているのか。本当に代替的なエネルギー政策は考えられるのか。電力自由化へ向けての動きはどうなっているのか。原発による町づくりの可能性など、いろんな問題について考えられたのではないか。飯田さんの答えには一つの説得力があった。視聴者はそのへんを感じてくれたのではないか。こういう機会をとにかく増やしていこう。エネルギー特集の第2回もまたやることにした。今までDOMMUNEにて6回やってきたが、視聴者数も反響も今回が一番多かった。やはりみんなの関心がエネルギーに向かっていっているのだろう。そう言う意味でも希望を感じた。
 その後はベルリン、パノラマバーのDJ CASSYによって踊らされる。終了後、僕と磯部涼とささおとイクちゃんとホンダくんとしんたろうとあやちゃんとPAのアサダさんなどと飲みにいく。今日は本当に楽しいかった。DOMMUNEの現場が、一つになって、問題に取り組もうとしていた。いいねえ。可能性を感じた。
 その後、僕と磯部涼とあやちゃんとホンダくんとしんたろうとOATHへ行き、結局朝まで踊る。朝方、寿司屋で、磯部涼に寝ていたら、髪を燃やされていたことはぼんやりと覚えている。焦げ臭いまま、家に帰ってくる。家で笑われる。

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 2011年3月4日(金)。午前11時に帰宅し、少し寝て、ナジャへ。ジャーナリストのキャメロンにインタビューを受ける。これがとんでもなくよいインタビューだったように僕は感じた。全部英語だったが、何か自分が伝えたいことがしっかりと言語化されたような確信があった。結局3時間もインタビュー。ナジャのケイコママもさすがに呆れていた。
 その語、零塾面接。友枝さんという28歳の男性。彼は入塾というよりも、もうすでに自分で実践しようとしていたので、まずは一人でやったほうがいいと伝える。本当は零塾なんて入らない方がいい。自分でできるなら、自分でやろう。僕もそうやってきた。そちらのほうが本当はよい。でも、何か教えて欲しいなら、なんでも全部教えます。零塾はそういう場所なのである。さすがに、原稿仕事も終わらせ、かなり大変だったDOMMUNEも終わり、ちょっとだけほっとする。ということで、今日は早めに寝た。たまには休もう。でも、頭の中は全く休まない。休みたくないらしい。身体だけはほっとさせよう。書き下ろしも仕上げないといけないし、モバイルハウスの方は今月が山場。雑誌ロビンソンもちゃんと焦点を合わせないといけないし、そして、海外での連続的な仕事が始まる。頭はシャープを保て。しかし、今は、暴れん坊だった脳味噌くんが大人になり、物わかりがよく、しかも動けるようになっているので、無駄なエネルギーを使う必要がない。それが最近の行動の原動力になっている。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-