坂口恭平

自筆年譜

1978(昭和53)年

4月13日午前3時、熊本県熊本市に、父・利明、母・睦美の長男として生まれる。3510g、49cmで予定日より17日遅れて出てくる。新屋敷一丁目にある熊本逓信病院にて。熊本逓信病院は逓信省出身の建築家山田守(日本武道館、京都タワーなど)による設計。恭平と名づけたのは利明の母サイ。一新尋常小学校時代の同級生であり、彼女が知っている人の中で一番頭が良かった、熊本市新町にある画材店「文林堂」のオーナーであった丹邊恭平氏から。尚、この名前は第二案で第一案は真理夫(マリオ)であった。それはさすがに睦美によって却下された。一弟、一妹がある。里帰り出産だったため、その後、福岡県粕屋郡新宮町に移る。

1983(昭和58)年 5歳

新宮西幼稚園にてキン肉マン、ドラえもんの絵を描いて人にあげるなどして過ごしていたが、途中から引っ越してきた子が「メカニックな電車が向こうから走ってくる」絵が描けることが判明し、一瞬、自分の画力に自信を失うが、彼からは立体的に描くということを学ぶ。幼稚園時代の夢は果物屋。ただ果物が好きだったため。後に夢を叶えてしまうことになる。

1985(昭和60)年 7歳

4月、新宮町立新宮小学校に入学。同じ社宅に住んでいた山本意徳君(タカちゃん)と画一化された社宅という空間でどうにかトンガッタ冒険を行うために試行錯誤。社宅の下を流れていた排水路に忍び込み、歩き続け玄界灘に出るという体験をする。年上の小学生とも遊び出し、社宅横にあった、砂丘のようなところにて松の木の上に初めての秘密基地を建設する。と言っても壁は無く、ただ松の木の上に乗って遊んでいた。キャンプに行くのにも紙と鉛筆が無いとわざわざ取りに帰るような状態で、とにかく絵を描き続け日々を過ごす。担任の佐藤範子先生の事が好きで、その後、大学時代にわざわざ新宮小学校まで行ってしまう。が、もうそこにはいなかった。後日、神保町にある美学校にて講義をした後の飲み会で、昔佐藤範子先生と一緒に仕事をしていた人と出会うものの、詳細は分からず。

1986(昭和61)年 8歳

タカちゃんの六年生だった兄ちゃんが描いていた漫画を見て衝撃を受ける。それはキン肉マンの影響を大きく受けた「マッスルマン」という漫画であった。しかも、兄ちゃんは連載をしていて、それを学校で毎週みせていた。それを兄ちゃんが居ない時に覗き見した僕はすぐに家に帰ってがんがんパクって「ハッスルマン」という漫画を作り始めた。もちろん連載形式にして、一回分は8ページぐらいであった。その後、溜まった連載を一冊の単行本にまで仕上げた。週刊ジャンプから頂いて、飛ぶ前ということで「ホップ・ステップ」という名前を付け、週刊誌風に作った。初めて自分で作った本である。現在は紛失している。この頃、定期的に子供劇に通う。「エルマーの冒険」を見て衝撃を受け、童話を作る人になりたいと一瞬思う。その後、ペルーから来た仮面劇を見て、そのあまりの前衛性に何だか分からぬが踊る人になりたいとも思う。というように、見たもの全てが自分の夢になってしまうほど常に色んなものから影響を受けていた。そしてよく真似をした。僕の方が絵がうまいと思っていたのだが、弟がポスターコンクールにて県知事賞というとんでもないものを受賞し、訳が分からなくなる。

1987(昭和62)年 9歳

7月、転勤のため、熊本に舞い戻ってくる。熊本市立日吉小学校に転校。数年前に福岡から熊本の祖父母の家にバスで弟の亮太と二人だけで行った時に財布を拾って警察に届け、一年経っても持ち主が現れなかったため、一年後、熊本南署に財布を貰いに行ったのだが、なぜかすぐその近くに引っ越してきた。その時、偶然は必然であるとふと思った。二学期の始めに、転校の挨拶を面白おかしくやってみたら、反応が良く、引き続き行われた学級委員長選にて、いきなり選ばれる。僕は面白いなと思って笑って帰ってきたが、両親はさすがにいじめられたと思ったらしく、次の日、二人で学校に来て事の真相に迫っていた。転校生という、どこにも属していない、フワフワでストレンジャーな状態を非常に気に入ってしまう。これがその後を左右しているような気がしている。

1988(昭和63)年 10歳

四月、野球部に入部。この後、高校一年生まで野球を続ける。この頃から家の中に「テント」と呼ばれる掘建小屋を作り始める。それは、自分の学習机を利用し、画板を屋根材として、毛布を被せ、机の下に布団を敷いてそこで食事をし、寝るというもの。喘息だったため、よくテント後に発作を起こすため禁止されていたが、周期的にやりたいという衝動が走り、やってしまっていた。壁付きの建築物を初めて作る。机を家と思った瞬間に、子供部屋が外部空間のように見えたことに驚きをおぼえる。建築的思考の第一段階。

1990(平成2)年 12歳

さらに空間への興味は継続し、毎日朝刊に挟まってくるマンションのチラシ内にある平面図に妄想で自分が生活したらどうなるかなとレイアウトをやり始める。それを見て、両親が「建築家になれば」とのひと言。これにより建築家という職業があることを初めて知ることになり、自分がやりたかったことを理解する。卒業文集では「坂口建築追い越し会社」という設計事務所の設立を目論み、東京タワーより高い熊本タワー、自由の女神より凄い肥後の女神の建設を夢見る。またパクリ疑惑。熊本大学付属中学校への入学を志し、試験を受けるが不合格。ショックを受ける。

1991(平成3)年 13歳

四月、熊本市立城南中学校に入学。版画が好きだった。図工の先生がこれまた偶然で母の高校時代の美術の先生であった。偶然というものに興味を持つ。授業で二点透視図法を一回だけ習う。そこで未来の都市のようなものを描く。幼稚園時代の衝撃以来、立体的に描くという事が自分にとってのテーマになっていたので必死こいてやる。ここで描いたことが、後のDig-italシリーズに繋がっていく。クロッキー、版画、鉛筆画など常にモノクロへの興味があった。ギターを母方の祖父、井元健之(けんし)から譲り受け、ドレミファソラシドの弾き方とCというコードだけ教わる。

1993(平成5)年 15歳

ビートルズを聴き始める。初めて聴いたのは赤盤。その後、ビートルズが好きだったロケンローラー、チャックベリーの存在を知り、衝撃を受ける。チャックベリーになりたいと思う。同時にバックトゥザフューチャーでのマイケルJフォックスがパート1で弾いたものがそれだと知り、何だか色々と混ざりながらも、ステージの上で暴れるような人になりたいという夢が勃発。建築家との間で揺れる。高校受験の際、合格したら、ギブソンのレスポールを買って欲しいと懇願する。無事成就し、ギブソンを手にする。バンドを中学校の同級生で結成する。またまたビートルズをパクリ、カブトムシじゃなくてクワガタの方が好きだったので、英語名のStagという名前を付ける。結構頻繁に活動する。

1994(平成6)年 16歳

熊本県立熊本高校入学。ビートルズ中毒からは抜け出せず、他の音楽が一切聴けなくなる。ギターの練習に励む毎日。そしてホワイトアルバムに遭遇し、ビートルズマニアの友人に120分テープに録音してもらい、毎日聴き続ける。ブラックバードをアコギで弾く日々を送る。それと同時に、ようやくここに来て、小・中学校と名前すら聞くことがなかった建築という文字が現れ始める。大学には建築学科というものがあることを知る。なので紀伊国屋書店や図書館などで建築家の写真集や図版などを乱読。フランクロイドライトの写真集を友人の兄ちゃんから譲り受け、それを模写していた。

1996(平成8)年 18歳

大学進学に当たって、どこに行くのかよく分からずに過ごしていた。しかも、試験は嫌いだった。ある日、図書館で乱読中に古い文献で1970年代の日本建築を知る。その中にあった石山修武氏が設計した「幻庵」という作品を見て衝撃を受け、氏が教鞭をとっていた早稲田大学理工学部建築学科への入学を志望するも、あまりにも自分の学力との差に愕然。諦めかけたその時に、なんとその学科への推薦枠があることが判明。これは行くしかないと、応募する。模試なんかは最悪であったが、記憶力だけは良かったので、校内の試験は成績が悪くなかったためどうにか推薦の枠を満たしていたらしい。運良く、建築への道を見出す。

1997(平成9)年 19歳

四月、早稲田大学理工学部建築学科入学。入学早々、突如原始人への原点回帰を思いつく。とんでもない方向へと向かって行く。頭は全て剃り落とし、格好は毎日、池袋東武で買ってきた作務衣、アフリカのサンダル、もしくは裸足という出で立ち。八月、熊本の廃車置き場から見つけてきたスズキバーディーという1969年製の50ccバイクに股がって、ベトナム戦争時に使用していた軍用機のヘルメット、格好はオランダ軍のパラシュート部隊というスタイルでその頃愛読し、自分との力の差に愕然としていた浮谷東次郎の「がむしゃら1500キロ」という本をパクリ、熊本~東京間1500キロを走るというパフォーマンスを敢行(「いまさら1500キロ」)。早熟な作家・芸術家たちに嫉妬する日々を送る。建築の授業を受けて、自分が思っていたものとのズレを感じ、次第に大学に行かなくなる。埼玉県上福岡のNTT学生寮に入寮。

1998(平成10)年 20歳

七月、人生初の海外旅行。悩まずに、インドはカルカッタへ。ジョージハリスンを崇拝していたため、これまた迷わず、インド楽器シタールを三万円で購入。しかし、所持金は四万五千だけだったため、その後、聖地バラナシにて無一文になる。しかし、持っていたオリンパスペンやライターなどを売りさばき、2000円ほどを獲得し、一日15円のカレーを三食食べ、さらには、バラナシヒンドゥー芸術大学の学生寮にありがたくも居候させてもらうが、あまりにの貧しさに日本人と信じてもらえず。しかし、話が面白いからと毎日、20人ぐらいの学生がその居候先にやってきては話をさせられた。その熱さを見てその後のインドの猛烈な勢いを予感する。帰国後、シタールとギターで作曲を家に籠りやり続ける。さらに、路上でギターと歌の演奏を始める。場所は渋谷駅周辺が主であった。一日に一万円ほど稼いでいた。この作業に自信をつけ、十月、熊本のアーケードで財布に一円も入れずにスタートして、ヒッチハイクと路上で歌を唄って日本縦断するというパフォーマンスを敢行(0円トリップ)。後の0円ハウスの初期形態。二週間後、無事に札幌に到着。所持金は四万円を超えていた。人間0円でも何とか生きていけることを実感する。

1999(平成11)年 21歳

建築家を夢に描いていたのにもかかわらず、その仕事内容にうんざりし、完全に道を失ってしまったような感覚に陥り、精神的にもガックリ。しかし、無償のエネルギーだけは衰えを見せず、もう既存の建築家という職業になることを完全に諦め、何か新しいものを見つけることにする。古い文献ばかりを理工学部の図書館で貪って探し続けた。バックミンスター・フラーや、ホールアースカタログ、などの60年代ヒッピーカルチャーに大きな影響を受ける。ソローの森の生活、ケルアックなどのビートにも。音楽と空間の同時に何か出来ないものかといつも思っていた。10月、大学の課題で出ていた「都市の再生」というテーマで、一切の設計図、模型を提出せずに、渋谷区内で見つけた廃墟屋上にあった貯水タンクに数日間棲むというパフォーマンス自体を撮影し提出し、物議を醸す。この課題の出題者は僕が入学したきっかけになった石山氏であった。規定の提出物を一切出していなかったにもかかわらず、高い得点を貰い、発表する場を獲得することに成功。その発表後、「お前はもう何も勉強せず、独自の道を突き進め、それをもしも追求できたら飯が食えるかもしれない」と予言され、それを実行に移すことに決定する。弟も上京し、下北沢の2Kの部屋で二人暮らし

2000(平成12)年 22歳

就職活動もアルバイトも一切やらない日々。しかし、決めたことなのであまり不安でもなかった。金はいつも無かった。八月、やけくそになっていたため、熊本から歩いて東京まで帰るという「参勤交代」を実行。やはり江戸時代を習って、靴ではなくサンダルにて。そのため足が破壊し福岡県八女市にて、断念。そこからヒッチハイクに切り替えて、無事に上京。大学時代四年間を費やされた、肉体浪費活動に終止符が打たれる。九月、多摩川にて二十年以上も川沿いに棲んでいる路上生活者と出会い、衝撃を受ける。卒業論文のテーマとして路上生活者の調査を行うことを閃く。そして、実行。多摩川の河口から、源流まで180キロを歩いて調査。その後、隅田川、新宿なども調べる。そこでソーラーパネルを使っている路上の家に初めて出会う。それらの調査は、全てセブンイレブンにてカラーコピーして、ケント紙にレイアウトし、一枚ずつ貼り、200ページ強の巨大な百科事典のような手作り本に仕上げる。昔のホップステップを思い出す。卒業論文が好評で選出され、自信になる。当時の題名は「東京ハウス」。それを出版するということを頭の中に思い浮かべる。

2001(平成13)年 23歳

早稲田大学理工学部建築学科卒業。しかし、大学院にも行く気もなく、就職活動も全くする気が無く、金も無い、最低の状態。将来の希望は衰えず感じてはいたが、少し油断するとすぐに生活の不安にかられた。大学院試験当日、家で寝ていたのだが、一本の電話で起こされる。それは石山修武研究室からであった。何だかよく分からずに、研究室に呼び出される。石山氏にお前はこれからどうやって生きていくのかと本気で言われ、ビビるが、ここでビビってしまったら終わりなので「独立します」と意味不明の独立宣言。すると、本気で怒られる。そして、研究室にタダで入れてあげるからそこでちょっと社会勉強しろと言われる。即答で返事をし、次の日から世田谷千歳烏山にある石山氏の自宅内の石山修武研究室地下実験工房へ通うことになる。毎日、朝9時から夜は終電ギリギリ。バイトもできないため困窮。設計もできないため、ワナワナ歩き回る日々。しかし、少しずつ卒論を出版するということをやっていかなくてはと思い始める。研究室の仕事でカンボジアに行く。レンガ積みをしながら、現地で共同生活をするというツアーを企画し、ツアコンとして働く。常に建築外の動きをしていた。飲み会でフーと出会い付き合い始める。家では電気が止められており、フライパンの上に蝋燭を灯したりしてキャンプ的生活を送る。高円寺の四畳半一間、トイレ共同、風呂無し、日当り最悪で二万九千円に棲む。

2002(平成14)年 24歳

一月、やはり独立してやっていかねばと思い立ち、石山研究室を卒業。その後、いよいよ生活がやばくなり、働かなくてはと思い、NHKの大道具の仕事をしようと面接を受けることに。肉体労働以外で人生初の面接。すると、そこは大道具ではなく、放送作家の面接であった。しかし、担当者の在日韓国人の方が面白がってくれ、昔築地にいたんだが、君みたいなやつは築地がぴったりだよと言われ、そのまま鵜呑みにし、帰りに、参宮橋のampmにてanを購入。そこに載っていた築地の果物店「遠徳」に電話し面接。築地で働き始める。妹から自分が昔果物屋になりたいと書いていたことを教えられ、思い出す。やはり夢を叶えた人間は強い。築地で生まれたんじゃないかというほどの馴染み具合で天職だと勘違いする。仕事が終わると、そのまま朝まで新宿リキッドルームや恵比寿ミルクや六本木イエローに行き踊り、暴れて、朝4時からまた築地というハードな日々を送る。人から誘われ、妻有トリエンナーレのコンペに応募する。それがなぜか決勝まで進み、最終審査を受ける。そこでは落選したが、その後のパーティーにて自分の本を営業する。そこで、その後、僕の重要なキュレーターとなる小倉正史、原万希子両氏と出会う。さらにパリのホウ・ハンルゥとも話し、いつか何かやりたいねと話す。後日、実現することになる。築地に明け暮れていたが、この体験後、また再び本をつくるという目的が浮上してくる。高校の同級生にどこがいいかと尋ねたら、「リトルモアという出版社しかないんじゃない」と言われたので、12月、人生初の売り込みを敢行。あえなく、撃沈するも、そこしかないと言われたので、再度電話。無名の人間で写真家でもないのに写真集をつくるなんて有り得ませんけど、と念を押されるものの、年明けは時間があると言ってくれたので見せにいくことに。

2003(平成15)年 25歳

年明け早々、リトルモアへ作品を持ち込む。担当してくれたのは大嶺さんと浅原さん。作品を見せた瞬間、何かが始まりそうな予感がした。すぐに、企画会議に出してくれることが決まった。三月、企画が通り念願の出版化決定。しかし、もちろん生活は相変わらずの重労働で、大変であった。

2004(平成16)年 26歳

決定したものの出版までの道のりは長く、なかなか発売されず焦る。ようやく四月に色校が出てきたので、それを切り取って貼って、仮本を作る。日本で受け入れられるとは思わなかったので、海外にいくことを早々と決めていた。4月15日からパリへ書店営業。キュレーターのホウとも再会。来年の展覧会に呼んでくれることが決定。さらに、郵便配達夫シュバルが独力で作り上げた理想宮の実物を見て衝撃を受ける。その後、ロンドンにも営業に行き、行った所はほとんど置いてくれることに。6月、「TACT」という演奏会を企画。早稲田大学学生会館にて。飯沢耕太郎氏に呼ばれ、東京総合写真専門学校にて講義。7月、とうとうリトルモアより処女作「0円ハウス」出版。初めての取材は光文社「FLASH」。朝日新聞の矢部さんと初対面。インタビューを受ける。10月、ベルギー、ブリュッセルにて初のグループ展に参加。キュレーターはホウ・ハンルゥ。ドイツ、フランクフルトにてブックフェアに行く。一人で本を手に売り込み。本は出たものの、初版分の印税はいらないという契約だったのでお金は入ってこず、相変わらずの貧乏生活。築地を止め、新宿ワシントンホテルの喫茶店でバイト。

2005(平成17)年 27歳

2月、講談社にて群像のためのドローイング。カナダのバンクーバー美術館シニアキュレーター、ブルースと初対面。原さんが紹介してくれた。作品の発表。2006年に個展を行うことが決定。4月、建築家、曽我部昌史氏からの依頼で東京芸術大学先端芸術学科にて講義。初の大学での講義。6月、本の売り込みのため、初めてニューヨークに行く。たまたまニューヨークに来ていた音楽家友部正人さんと一緒にブルックリンでライブ見たりして過ごす。原宿ラフォーレにて、ロンドンのケンケンらとライブを行う。即興J-POPを披露する。西荻窪に引っ越してくる。フーと同棲し始める。7月、スペクテイターにて第一回目の立体読書を執筆。8月、千駄ヶ谷ボノボにて、スペクテイター発売記念パーティー。アコギでライブ。金沢へ旅行。iBookを購入。初めてのマイコンピューター。9月、ロンドンタイムスの取材。10月、京都精華大学にて講演会。初めての講演会。120人ほどの人が集まる。ホテルの仕事にハマり、新宿の東京ヒルトンに移動。ここが面白かった。VIPの方からチップなどを貰ったりしていた。稼ぎはそれなりにあった。生活が少し安定。相変わらず、執筆などの自分の仕事では収入なしの日々。しかし、理解者は増えてきた。連載:スペクテイター「立体読書」スタート。

2006年(平成18)年 28歳

2月、テアトル新宿にてトークショー。山田雅人と。3月、ゼロックスの支援で0円ハウスの巨大プリントを作成。4月、スペクテイター編集者ケイちゃんの結婚パーティーにて、DJ 1Drinkによるムタンチスの曲に合わせてダンス&シング&テキーラ。6月、横浜の東京芸術大学映像学科にてヴィデオアートフェスティバルにてビデオ作品「貯水タンクに棲む」と「移住ライダー」を発表。7月、フーと結婚する。原宿MOGRAにて、個展。8月、新宿京王デパートビアガーデンにてダンス。9月、高校の同級生、波佐間浩平によってホームページ「0円ハウス」がリニューアルオープン。カナダ、バンクーバー州立美術館にて個展。11月、伊勢の旅。12月、下北沢ROOMにてライブ(SUPER FRESH!)隅田川沿いにて鈴木さんと遭遇。ホテルのバイトもやめたいが、相変わらず仕事ではお金が入らず、やめられない。

2007年(平成19)年 29歳

1月、インド人のテュシャールに誘われ、世界社会会議に参加するためにケニア、ナイロビへ。初めてのアフリカ旅行。2月、AERA誌上にて鈴木さんの生活を紹介した「0円生活の方法」という僕の記事が発表。3月、美学校にて講義。横浜ZAIMにてグループ展&トークショー。キュレーターはヒコちゃん。4月、古川林業新百合ケ丘住宅展示場にてトークショー。横浜BankARTにて展覧会「地震EXPO」参加。建築家の曽我部昌史、宮本佳明両氏とトークショー。5月、京都精華大学にてワークショップ。6月、伊豆「LAKE ISLAND」にてライブ。カナダ、バンフにてグループ展参加。バンクーバーにて結婚式。7月、長らく続けていたバイト生活を完全にやめ、執筆、美術の仕事に専念し始める。京都精華大学にて建築学科3年生の講評。8月、京都、広島へ旅行。9月、ウェブサイト英語版開始。10月、北海道登別へ取材。11月、フランス、サンナザレにてグループ展に参加。広島へ取材。12月、下北沢CITY COUNTRY CITYにてライブ。自分の作品「Dig-ital#1」が、海外のコレクターによって初めてコレクションされる。とうとう完全に独り立ち。なんとか食っていけるようになってきた。連載:coyote「ワープ・イン・ジャパン」、ecocolo「四次元ガーデン」スタート。

2008年(平成20)年 30歳

1月、滋賀、近江八幡NO-MA美術館にてグループ展参加。大和書房より「TOKYO 0円ハウス 0円生活」出版。初の印税。2月、福岡へ取材。東京都現代美術館にて川俣正氏とトークショー。広島市現代美術館にてグループ展「シェルター&サバイバル」参加。阿佐ヶ谷香染美術にてグループ展「TOKYO LOCAL」参加。京都へ取材。3月、ジュンク堂池袋店にて赤瀬川原平氏とトークショー。青森へ取材。川崎アルテリア小劇場にてアフタートーク。初めての重版。4月、青山出版社より「隅田川のエジソン」出版。5月、カナダ、ウィニペグにてグループ展に参加。6月、第一子、長女碧(アオ)誕生。出産に立ち会う。一ヶ月早産。その後、一ヶ月入院。イタリアにて講義。日本文化デザイン会議に出席。鳥取へ取材。7月、アート・イン・ザ・オフィス受賞。東京駅横にあるマネックス証券会社本社プレスルームの壁画制作。愛知県中部大学研究会にて講演。兵庫へ取材。渋谷パブリッシングブックセラーズにてトークショー。8月、ワタリウム美術館にて、鈴木さんとのトークショー。9月、長崎の超能力喫茶店へ取材旅行。翼の王国のため香港に取材旅行。練馬区公民館にて寿大学講演会「21世紀的な家の在り方」。溺愛していた西荻窪の家が日当りゼロだったため、アオが生まれたことをきっかけに国立のアパートへ引っ越す。10月、福井県へ取材旅行。11月、宮城県へ取材旅行。展覧会「State of Emaergency」参加のため、モントリオールへ旅行。12月、高知県へ取材旅行。茅場町の古本屋森岡書店にてドローイング展。最終日には文筆家大竹昭子さんとトークショー。美容室TWIGGYの忘年会の司会進行、ダンス、歌唱などをして破滅。今年も結局は金欠で終る。

2009年(平成21)年 31歳

1月、東京カルチャーカルチャー(お台場)にて「東京0円生活ナイト!」僕と隅田川の鈴木さんと太田出版の北尾さんとトークショー。CITY COUNTRY CITY(下北沢)にてライブ。2月、精神の異常に苦しむ。MHKBS週刊ブックレビューに出演。3月、取材で種子島へ。4月、六郷土手近郊の多摩川河川敷にて、多摩川生活を始める。京都のカフェhanare三周年記念パーティーにてトーク&ライブ。現代美術家の高嶺格さん、キュレーターの遠藤水城さん、映画評論家の廣瀬純さんと四人で。6月、素人の乱12号店(高円寺)にて、写真家、梅川良満くんとトークショー。香染美術(阿佐ヶ谷)にて展覧会『TOKYO LOCAL」に参加。上智大学にて立体読書のワークショップ。四冊目の書き下ろし単行本「TOKYO 一坪遺産」発売。7月、萩へ取材旅行。8月、尾道へ行き、襖絵を描く。AIR尾道というアーティストレジデンス。光文社「本が好き!」にて「東京珍貸住宅情報」連載開始。小学館月刊スピリッツにて「路上力」連載開始。9月、山形へ取材旅行。トロントへ展覧会参加のため旅行。「NUIT BLANCHE」という丸一日かけて行われるイベントに参加。10月、TOKYO ART SCHOOLというイベント(代官山)で、哲学者萱野稔人さんとトークショー。小学館ウェブサイトにて「カリスマホームレスに訊け!」連載開始。滋賀県立大学にてレクチャー。11月、熊本市現代美術館にて個展「熊本0円ハウス」開催。幡ヶ谷に坂口恭平研究所開設。和歌山へ取材旅行。世田谷ものづくり学校にてレクチャー。ジュンク堂池袋店、新宿店にて展覧会同時開催。ジュンク堂池袋店にて写真家石川直樹くんとのトークショー。満員御礼。12月、ラッパー、マイクアキラ氏(四街道ネイチャー)とのセッションレコーディング。ANAの機内誌「翼の王国」巻頭特集のため、インドへ取材旅行。

坂口恭平の ‘創造’とは・・・

幼少時代から、秘密基地制作を通じて建築に魅かれ続ける。

小学校時代に二点透視図法の書き方を教わり、未来都市のようなものを書き続ける。
自宅では月に一回ほど、「テント」と呼んでいたのだが、自分のコクヨの机と椅子に画板で屋根を作り、その上に毛布をかけて「0円ハウス」を作っていた。そして、そこで家族とは別に食事をとったりしていて、さらにその中で寝てたり。埃っぽいからすぐ持病の喘息の発作が出てくるため親には禁止されていたが・・・。

中学校からは実際に壊れた椅子を拾ってきたり、捨てられた木材の質感に痺れたり・・・。だんだん実物としての建築に向かっていく!

高校生になったら、Le Corbusierの作品集を見てしまい将来の道を決定する。さらに日本の建築家、吉阪隆正を知り、その思いは加速する。建築雑誌を読み漁り、現代の建築家にも触れる。そこで見たのは、石山修武の「開拓者の家」という作品だ。住人自ら、石山が書いた図面を元にセルフビルドし、十年以上かけて作られた建築だ。この建築は今でも現代建築の中で、未来への光を放っている!!その流れで「川合健二」の「ドラムカンの家」にも触れる。CHEVALの理想宮も知ることになる。

大学は建築学科に進み、建築を学ぼうとするが、そこからが転落(?)の始まりだった。僕が求めていた「生きていくための建築」とは程遠い、現代建築。
僕はすぐに学校に行くのを止め、路上にその活路を求めた。(今考えるとね・・・。)

始めに行動を起こしたのは、20歳の時。
渋谷区の公団住宅で廃墟になっているのを知った私は、屋上に忍び込み、貯水タンクの中を覗く!予想通り水は枯れていて、そこにはちょうど人一人忍び込めるスペースがあった。
一等地の渋谷区の中に、誰も知らないFREE SPACEが!!僕はそこに住み始め、ビデオ作品として日常を収めた。

その一年後、今度は宅配に良く使われるHONDA CANNOPYを中古で3万円で購入し、後ろの荷台に小さな家を作り、動く住宅として公道を突っ走った!
それらの過程で私はいくつかの素晴らしい路上の住宅に出会う。
多摩川の竹藪の中で出会った家は、まるで鴨長明の方丈のように20年間も誰も知らない住所不定のまま立っていた。
巷で注目を浴びていたいわゆる「ホームレス」の家とは訳が違う。
彼はまさに「生きる」ために家を自力で作り、そこに独力で生活していた。
その時、私は路上の家をこの観点から撮りはじめた。
「生きるため」に作っている家。
そこで出会った家たちは、全てが違い、それぞれがその人にあった自分だけの空間を提示してあった。まさに現代の建築である。

その体験をもとに私は人の為ではなく、自分のために、しかも0円でできる家を作り続けようと確信したのである。
自分の家を自分の頭で考えて、自力で作る。
このとてつもなく個人的な行動は、金をもらってよく分からない、建築家のエゴと施主への配慮、遠慮、妥協が入り混じった建築よりも他の人間に対して何かのメッセージとなるのではないか!

略歴

本名 : 坂口 恭平
1978年 熊本県生まれ
2001年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
2004年 0円ハウス出版!(LITTLE MORE)

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-