零塾

第0章 はじまり

 2010年11月19日。僕は新しい朝を迎えた。なんか清々しい気持ちである。朝起きて、机に向かう。いつもだったら煙草を一服するのだが、全く吸いたくもない。今から歩き始めるのだから、もう酩酊する必要がないのだ、とその瞬間に気付いた。パソコンを起動し、メールを開く。日記を今まで書いてくれてありがとうというたくさんのメールに僕は本当に泣いてしまった。おつかれさまでしたと書いてあった。そして始まるのですね、と。かと言って何をするのかは僕にはまだよく分かっていない。しかし、とにかく零塾を始めようではないか。一昨日の佐々木中とのトークショーのことを思い出す。そこで出てきたジャック・ラカン、サミュエル・ベケット、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオという三人の作家のことが気になり、ウィキペディアでまずはチェックと思って開いた途端に、僕は鳥肌が立ってしまった。なんと、その三人の作家たちは、みな僕と同じ生年月日、4月13日生まれだったのである。しかも、さらに付け加えて言うには、今、一番僕が気になっている作家である水嶋ヒロも同じく4月13日であった。新しい朝にふさわしい偶然じゃないか。僕は嬉しくなって、電車に乗って渋谷駅へと向かった。
 今日は零塾の記念すべき一回目の面接である。ハチ公前で待ち合わせたのは、26歳の男性、成瀬望くん。彼は先日、批評家の杉田俊介さんとSNACでトークショーをした時に聞きにきてくれて、終了後ずっと僕の横で自分のやりたいことを語ってくれた。そして、今回僕が零塾を始めると告知をすると、すぐにメールを送ってくれたのである。彼はインドに行きたいと言っていた。しかし、今日面接に来ると言うことは行っていないということである。僕の横で成瀬くんは緊張した面持ちで歩いている。しかし、僕も緊張している。面接をするということは、全責任を背負うということである。僕にそれが果たしてできるのか。しかし、引く訳にもいかない。覚悟を決めて、二人でドトールに入る。カフェラテとホットドッグを注文して、二人で向かい合って食べる。僕はとにかく耳を傾けることにした。成瀬くんはすると口を開け、自分のこれまでの人生を語り始めた。それはとても愉快なエピソードが織り混ざった話だった。僕はついつい惹かれてずっと聞いていた。その瞬間、僕が0円ハウスでずっとフィールドワークを続けながら話を聞き続けたのが練習だったことも了解した。人は誰にでも物語がある。しかし、その話をするための時間やタイミングが今の社会には完全に失われているのではないか。成瀬くんが必死に話をするのを見ながら、僕は零塾の役目を感じた。これでいいのかもしれないと思った。成瀬くんはとにかく幼少の頃からの話を終えると、こう切り出した。
「それで最終的に僕は一冊の本と出会い、インドに行ってみたいと思ったんです」
「いいねえ」
「でも、インドに行って何をするかが全く分からないんです」
 成瀬くんは完全に困っていた。彼はフライングしているかもしれないが、インドへ行って何かをしたいということを知覚したのである。しかし、その理由が分からない。僕は彼を見て、頭では分かっていないかもしれないが、体は絶対に確信しているはずだと思った。これには僕は経験があったからである。それは大学受験のときである。僕は建築学科にいくことだけを決めていた。しかし、そこでどんなことをするのか、さらにはどの大学にいけばいいのかは全くイメージできなかった。その時に僕が取った方法は「どの大学に入るかということを完全に無視して、誰に会うかを探し求める」ことであった。それだったら、別に大学に落ちても気にしない。なぜなら、落ちても勝手に上京して、その先生の研究室のドアをノックして、
「先生のところで勉強をしたいんです」
 と熱く語ればなんとかなるはずだ、と僕は思っていた。そんなことを考えて早稲田大学で教えていた石山修武氏を知り、感銘を受け、この人以外に考えられないと思った瞬間に、指定校推薦によって僕は自動的に早稲田大学理工学部建築学科に入学した。そんなもんである。人を好きになること。その愛は全てのことを可能にするーーー僕はこの方法を取ってみてはどうかと思いついた。
「成瀬くん、インドに何をしにいくのかと考えるのではなく、11億人いるインド人の中で一番会いたい人を見つけてみるというのはどうでしょうか?」
 その瞬間、成瀬くんの顔が変わった。僕としては新しいレイヤーの存在に気付いた瞬間の顔をした。しめしめ、これはいける。
「それは考えたことがありませんでした。しかし、考えてみると、それが一番大事なことかもしれません」
「じゃあ、成瀬くんの零塾での目的はそれにしましょう。とにかく11億人の中で一番会いたいインド人を確定すること。そして、見つかったら絶対に会いに行こうよ。そんなこと考えて毎日を過ごすと思うと、ちょっと興奮するでしょ?」
「はい。なんか気が楽になりました」
「うん、でも徹底的に探してね。インド料理屋にバイトとかして潜り込んだりしてでもね」
「ありがとうございます」
 そして、二人は別れた。月に一度その探索の結果をレポートしてくれとお願いした。零塾ではそれぞれの人によって学ぶ方法論、技術が違う。初めての面接にしては良かったかもとほっとした。その後、彼からちゃんと探しますというメールが。そして、さらにどんどん零塾の受講希望者たちからのメールも届いている。もうすでに10人以上。ウェブサイトのアクセス数も今までと全然違い、どんどん伸びている。何が起きたのだろう。僕は、その後、一本のインタビューを受け、帰り道にふと思いついた。
「この零塾を作っている過程というのを記録できないだろうか?」
 日記が終わってほっとしたのも束の間、次に僕はこの零塾自体を全てネット上に送り込むことで、入れ子構造の小説とノンフィクションの融合、さらには零塾という教育機関の教科書にもなり、また成瀬くんの目的を明確に記録し、公開することで彼も緊張感を持ってできるし、またインド人の友人がいる人からの情報もたくさん来る可能性がある。これは画期的な方法かもしれないと興奮した僕はすぐに0円でシステムをやってくれているハザマに電話をして、零塾サイトを作ってもらうことにした。
 成瀬くんに電話をすると公開してもらってもかまわないという。よし、これでいける。
 というわけで、今日からjournalは終わり、新たに永遠小説「零塾」を始めます。登場人物も内容も時系列も全て現実でリアルタイムで更新されていく小説。僕はまた新しい仕事を見つけた。零塾を始めたきっかけは様々な要因が重なっているのだが、やはり一番大きな理由はこの三年間で三人の友人を自殺で亡くしてしまったことである。みんな僕の家で食事をしたことがある。しかも、そのうちの一人とは僕はかなり議論を重ねていて、しかも、かなり強い言葉で叱咤激励をしていた。そして、やるなら死ぬ気で徹底的にやろうよとずっと言っていた。それなのに、死んでしまったのである。僕は悔しかった。だけど、同時にもっと優しくすることもできたのではないかとも思った。いくつもの判別できない感情が僕の頭の中をぐるぐると駆け回り、自分を責めたり、相手を責めたり、してみたが、結局そんなことをやっても意味がないと思えた。ただもう二度と自殺者を出してはいけない、彼らの苦しみを自分の苦しみとして完全に引き受け、ちゃんと希望を見つけ出さないといけないと思った。しかし、今のこの社会では自分が持っている才能を最大限に生かすということはとても困難で、人は容易に諦めてしまう。そのことを問題視しつつも、解決策が見つからない。だけど、僕には見えていた。なぜなら僕には都市型狩猟採集民という酋長であり、父であり、先生であり、死にそうになったらいつでも自分のところへ来なさいと僕に言ってくれた唯一の人たちだったのである。おかげで僕には希望が出来た。社会システムというものから逸脱している人々が、唯一、この社会の中で希望を持っているのではないかとさえ思った。だから、僕はフィールドワークをしているのである。そして、僕は同時に二歳半になる娘、アオがいる。この娘に希望を与えるにはどうしたらよいか。そんな時、多摩川のロビンソンクルーソーは、
「いつでも連れてきなさい。なんでも教えてあげるから。草でも花でも虫でも魚でも、家のつくりかた、野菜の育て方、動物との接し方、道具の使い方、電気の扱い方などね。だから、いつでも連れてきなさい」
 と言ってくれたのである。僕は本当に幸運な人間である。どこに、そんなことを言ってくれる人がいるのだろうか。完全に都市化してしまった人間たちにはそのような野生の思考はない。しかし、人間を本当に生きさせる原動力となる力とは、この野生の思考そのものである。僕はその瞬間にすべてを了解した。僕がやっていたのは、ただの路上生活者の家の調査なんかではなかったのだ、と。
 僕が体験していたのは、太古から永遠と続いている先人から無知な若者へと伝承されていく文化的経済、つまり教育だったのである。彼らは僕に一円足りとも請求しなかった。常にギブ&ギブ&ギブだった。贈与そのものであった。僕はそんな無償の愛を全面的に受け続けていたのである。死ぬ訳がない、と思った。僕は死なない、と。
 死者たちが彼らと出会えていたら、どんなに救いになったのだろうか。表面的な人間関係や、お金の有る無しや、労働の成果など、どうでもいいじゃないか。ただ毎日、新しい朝を迎えて、自分でつくった野菜でも食べて、0円で暮らして、自由を体感している人を知っている僕は彼らも連れて行くべきだったのである。そうでなくても、自分の言葉で伝えてやるべきだったのである。観念的な思想なんかどうでもいいじゃないか。生き延びることだけが必要なのだ。困ったら、いつでもこいという人間こそが必要なのだ。僕は贈与を受けたのだから、今度は僕の番なのではないか。それこそが今回の零塾の動機である。
 だから、飯が食えないんだったら、うちで食べさせようではないか、とフーにお願いした。フーは快く受け入れてくれた。最高じゃないか。お金が無いのであれば、貸さずに、あげる。でも、僕を説得する目的を教えてくれ。とにかく、本気でちゃんと生きようとするものを応援する場所をつくりたい。それを僕の家にする。もっと言えば、僕自身が零塾として存在すればいい。歩き回る私塾。動き続ける私塾。今日、連絡があっただけでもオランダのユトレヒト、京都、ドイツ。つまり世界中に僕が動き回り続け、零塾を開塾すればいいのである。とにかく僕はもう二度と自殺者を出したくない。毎年三万人という戦争時よりも多い死者たちが苦しんでいるこの社会のどこが素晴らしいのだろうか。領土問題なんかやっている場合か、馬鹿野郎。今、その場で救わないといけないことがあるだろう。とにかく、僕は自分が生かされた人間であるから、その先人と僕と、苦しんでいる困っている人間たちを一つの道の上で会わせようと思っている。根源的な営みとしての教育を取り戻す。それができるのは、僕しかいない。そのようなレイヤーをかっ飛ばし、逸脱できるのは僕しかいない。だからこそ、引き受けよう。そのかわり、みんなも死にものぐるいでやってみようよ。死者たちのことを思う時、僕は絶対に油断して生きては駄目だ。それでは彼らが浮かばれないと思う。希望を持っている人間はちゃんと立ち上がらないといけない。そして、隣人の肩を叩いて労おうじゃないか。
 とここまで書いて初回の原稿分をアップしたら、一通のメールが来た。受講希望者の八木香織さん。僕は11月が予定が一杯になってきたので12月に面接しましょう返信したのだが、12月は自分がどうなっているのか分からないとの旨。深夜12時過ぎているが心配になったので電話をしてみた。初日から蠢いている。
「八木さん、大丈夫ですか?」
 すると、八木さんは全然大丈夫じゃなさそうなことを、ユーモア溢れる声質で語った。 「ずっと五年ぐらい就職活動をしているけど見つからず、しかもバイトをしているんですが、そこも5月からずっと給料が支払われていないんです」
 なんなんだ、そのバイト先は。こちらは理解不能。しかし、この状態では12月には本当にどうなっているのか分からない。とりあえず僕は空いているスケジュールを伝えることにした。26日に会うことに。

 2010年11月20日。朝からたくさんのメールが送られてくる。僕は今まで自分が書きたいと思うことを書いてきたつもりだったが、それがまだ出し切れていなかったのだということを知った。それがここ数日では、もっと書き現せるようになってきたのかもしれない。だからこそ、それを読む人の中に届いているのかもしれない。零塾への受講希望者が毎日毎日どんどん増えている。それに一つ一つ返していく。フーが心配そうに見ている。僕がいつも新しいことを始めようとするときは、かなりエネルギーを放出するので、身近なフーとしては摩耗していつもぶっ倒れるのが恐いのである。それで何ヶ月も休んでしまったら、今度はあんただけでなく、受講者にも迷惑をかけるから温存するように、と言われた。いつもは全く聞き入れないのだが、今回は耳を傾けることにした。だから11月はもう予定を入れないことに。みんなに12月に面接を受けてもらう旨のメールをする。昨年、トロントで会ったマイコが、ユトレヒトで今働いていて、来年来てくれとの依頼。彼女は本当に才能のあるアートディレクターなので仕事を一緒にするのが楽しみだ。僕にはありえないほど素晴らしい世界中のネットワークがある。今こそ、このネットワークを使って世界中を歩き回らないといけない。京都で新しくSocial Kitchenという私設の公民館を作った須川咲子ともスカイプをして、12月に京都で零塾の出張をすることに。とにかく動く。それを横で見ているフーは、手綱をぎゅーと引っ張っている。で、今回の零塾はフーもスタッフとして働いてもらうことにした。アオもだ。フーはとんでもなく優しい人間なので、厳しい僕ばかりではみんな疲れてしまうと思うので、リラックス担当。そして、僕の家で食事を出してもらう。僕の頭には黒澤明の家がモデルとしてある。彼は外ではなく、家で食事を食べるのが好きな人で、黒沢家にはたくさんの人が集まり、奥さんは食堂のようにみんなに料理をふるまっていたらしい。それを以前読んで、僕もこういうふうな空間を作りたいなと思っていたのだ。僕が20歳ぐらいのときに書いていたドローイングは、九龍城のようなホテルで僕が支配人でみんな集まってわいわいがやがやとびっきりの変なことばかりやって暮らしているものだった。つまりは街を作りたいのだろう。とにかく興奮している。
「とにかく落ち着いて、ちゃんと休みを取ること」
 それをフーと約束した。そんなことを話していたらアオがお腹が痛いというので、今日の仕事は全てキャンセルさせて病院へ連れて行く。風邪だった。仕方がないので、家で仕事をする。集英社すばる「モバイルハウスのつくりかた」連載第5回のために3500字。すぐに書き終わり送信。その後、明々後日トークショーをするドキュメンタリー映画「怒る西行」を観る。これはすごい映画かもしれない。沖島監督の言葉に僕の仕事と共通するものを感じる。トークが楽しみだ。
 零塾のメールを読んでいる。これがまたみんな恐ろしいほど長い。はじめ、僕はこれを全部読んでいては仕事にならないと思い、もっと簡潔にまとめるようにとお願いした。しかし、それが間違っていることに気付いた。これは彼らの思いであり、彼らは自らの固有性を持ったエピソードを語ることで、物語をしようとしているのだ、と。それを僕はもっと簡単にまとめろと言ってしまった。そんなことできるわけがないのだ。むしろ、それを今までの人生では、会社の中では、学校の中では、封印して生きてきたのである。それを零塾では、主軸に置いて学べると思ったからそう書いているのだ。自分の行動を反省した。もっと書いて下さい。忘れてしまっているようなことも、必死に思い出して書いて下さい。僕は今、たくさんの人の物語を読んでいる。それは精読すると、どれもかけがえのないものばかりである。それと今自分が書いている半生記がだぶってくる。そこには一つの可能性が隠されているはずだ。僕は零塾の方向性を確信した。だから、とにかく全てを思い出し、僕に向かって書いて下さい。お願いします。あとは、それをうまくコントロールできるように自分の毎日の生活を計画していく必要がある。巨大なエネルギーと共に、新しい朝が産まれた。それがようやく落ち着いてきた。だからうまく着陸できるように、クールダウンしていこう。夜、家で鯖とピーマンハンバーグを食べる。美味しい。
 僕は将来、集落のようなものを作ろうと計画している。そこでは僕の家族、親父と母ちゃん、亮太の家族、美帆の家族、フー母、メイとユメの家族などが寄り添い、それぞれ自ら建てた小さな家に群居している。そんなところに零塾もあるのだ。もちろん、吉阪隆正の自邸&U研究室のイメージも入っている。石山修武さんの世田谷村のイメージも。誰でも入れる集落のような家、コミュニティを形成したい。それは今までは夢想だったのだが、現実に可能なんじゃないかって思うようになってきた。そして数学者で思想家であった岡潔さんの言葉も胸に突き刺さってくる。
 それぞれの人間が、それぞれの仕事を手にしている生活。それぞれ手描きで看板を書き、なんとも形容のしようのない独自の仕事をしている。そういう世界になれば、お金なんて、今のような絶対的な価値ではなく、友人がくれる自分の好きな曲だけが入ったCD-Rや、ノノカがいつもアオに送ってくれる手製の封筒に入った手紙のようなものになるだろう。つまり、お金自体に僕たちは今、色を塗らなくてはいけないのだ。僕が今、手にしているお金にはたくさんの色が散りばめられている。誰からどんな経緯で贈与されたものか、全て説明することができるのだ。それは僕にとってはとても重要なことである。だからこそその色のついた手作りのようなお金を、また他の何かに誰かに使いたいと思うのだから。

 2010年11月21日。朝から外出。今日は集英社すばる「モバイルハウスのつくりかた」のためのモバイルハウスつくりを多摩川で、ロビンソンクルーソーと共に。ドキュメンタリーを撮っている本田さんも一緒に。屋根からつくりはじめる。ロビンソンからミリ単位から適当にせずちゃんとゼロから家を建てることを学んでいる。こんなこと人生でそうそうあるもんじゃない。むしろ、人生でこれだけやっていれば大抵のことは無理なく生き延びていけそうだなと思った。僕は今、自分で零塾をやっているのだが、同時にロビンソンから家の建て方を教育されている。ロビンソンは宗教家のような人だ。どうにか僕にその技術を伝えようとしている。だからこそ僕も、しっかりと付いて行く。集英社の飛鳥さんやislandの伊藤さんも見に来た。みんなここに見学に来て、そしてロビンソンに教わっているのである。これをもっと広く世に伝えることはできないか。そんなことを思っている。全国の小学校を回ったりすることはできないか。ふとそんなことをロビンソンに言うと、
「坂口さんは、いつも私を酷使するなあ」
 と笑っている。ロビンソンは今70歳。75歳になったら隠居していいから、それまではどうにかあなたが持っている技術を人々に伝えてくださいと僕は懇願している。午後4時ごろまで作業して今日の仕事は終了。その後、恵比寿で磯部涼とマルチネレコードのtomadと待ち合わせして、新しくできた変なスペース渋家というシェアハウスを覗きにいく。みんな0円ハウスのことを知っていたので、色々教えてあげた。その後、tomadと磯部涼と三人で池袋へ行き、S.L.A.C.KのライブとパンピーのDJを聴きに行く。今日のスラックの夕方、本当にすごすぎて痺れた。終了後、二人と話す。僕は今、彼らをBBCセッションに出したいという妄想があって、そのために勝手に動いていいか?と聞く。是非!とパンピーに言われたので、さっそく取り掛かることに。有り得ないことをやりたい。そしてそれが可能なのであることを人々に伝えたい。夕方はスゴい曲なので、明日のV6の岡田准一さんとのラジオ対談の時にもかけたいなあと思う。imoutoidもぜひかけたいものだ。
 新しい朝が来てから、ふと終電で帰ろうと決めた。朝はちゃんと寝て、起きて迎えようと思ったのだ。だから、さっと家に帰った。帰ってきたら、フーが嬉しいと言った。自分が気付いていなかったことに気付いた。

 2010年11月22日。終電で帰るようになった瞬間から風邪を引く。つまり、今までずっとテキーラの力によって休みたい体に鞭打っていたのか、と納得。というわけで、家でぐったり。零塾の応募は相変わらず来てます。現在15人。これでも、既に連絡など大変だということを知る。50人くらいは自分一人で対応できるかと思っていたが、果たしてどうか。太田出版の梅山くんからNHKの方が零塾について取材したいとの申し出があったとのこと。今回は、0円ハウス関連の仕事と違い、人々の関心が高い。PUMPEEとtomadから音源が送られてくる。とにかくこの二人、ジャンルは違えど、とんでもない男たちなので要チェックである。とにかくざわめきは収まらないのだが、外出。国立駅南口改札にて映画宣伝の方々と、ムサビの学生である結城さんと待ち合わせして、ルノアールにて打ち合わせ。26日に行われる「死なない子供」という荒川修作のドキュメンタリー映画についてのシンポジウムについて。色々と話す。学生は何も知らない。そのことに愕然としながらも、かと言って放っておくわけにもいかず、結局おせっかいな僕の精神が疼く。一時間ほど話して別れる。あまりにも体が痛くて、その後の仕事に支障をきたしそうになっているので、駅前の中国人のところへ行って、1時間マッサージを受ける。その後、電車で六本木へ。六本木ヒルズの森タワーにて集英社の飛鳥さんと待ち合わせ。J-WAVEの小松崎さんと会い、森タワーの中へ初めて潜入。しかし、よくこんなところで仕事しているなあと思うほど、人工的な空間である。J-WAVEのスタジオに入り、その近未来的な空間にドキドキする。打ち合わせを済ませ、放送作家の人が早稲田卒の九州男児という共通点であることを知り、僕も同じでよかったなあと思う。この二つが合体した時には、大抵の物事は潤滑に進む。そして、V6の岡田准一さんと初対面。もうこんなことを言っても、ギャクとしか思われないとは思わない。イノッチ、ビートたけしさんと来て、岡田准一さん、なかなか有り得ないライン上をひた走っているのではないか。J-WAVEで5年にも渡って続けられている岡田准一さんの番組「Growing Reed」という対談番組の収録。V6繋がりで、イノッチから紹介されて実現されたのかと思い、その旨を岡田さんに話すと、びっくりされて
「違いますよ。へえー、イノッチってプライベートでそんなことしてるんですか?」
 と驚かれる。どうやら今回は放送作家の方が僕の本を読んだことがきっかけで実現したえ企画らしい。すごい偶然である。とにかくV6に縁がある僕。そして、収録スタート。岡田さん、のっけからかなり突っ込んだ質問が飛び「一体、坂口恭平とは何者なのか」と問い続けられる。必死に応戦する。岡田さん、本気で賢いです。びびりました。しかし、共感もあり、かなり濃密な一時間の対談であった。来年早々に放送される予定。充実した時間だった。その後、太田出版の梅山くんも参加し、飛鳥さんと三人で椿屋珈琲店で喫茶しながら、今後のことについて作戦会議。とにかく、今、あらゆることが蠢き、あらゆる人々たちが繋がり、そして、見たこともない風景に向かって行っている。そんなこと人生でそんなにないだろうという、緊張感が、僕だけでなく、回りの人間にも伝わっていっている。だから、ちゃんと一つ一つをミスせずに丁寧にクリアしていかなくてはならない。緊張度もかなり高いが、武者震いも同時にしている。
 今日も、僕は早く帰る。とにかく風邪がやばい。午後9時に家族三人で布団に入る。

 2010年11月23日。しっかりと12時間も睡眠を取り、水分を取り、汗を流したので、朝は爽快であった。今日もちゃんと働けそうだ。午前中はおかゆを食べて、ゆっくりして、外出。午後12時に小田急永山駅へ到着し、永山ベイブホールへ。今日は沖島勲監督の「怒る西行」の上映会の後のトークショーに参加することに。沖島監督と初対面。僕はこの映画を見て、久々に映画で感銘を受けたので、その旨を伝える。インセプションよりも全然SFでしたとも伝えた。見た目はそんな映画ではないんだけれど。沖島さんと初めて話した瞬間から共鳴した。その後、僕と沖島監督と司会の梅山くんの三人でステージへ。映画についてしみじみと語る沖島さんを見ながら、僕は会うべき人にまた会うことができたことを実感した。沖島監督は70歳。ロビンソンクルーソーと同い年である。なぜか、今、このくらいの歳の方と共鳴している。そのことに感動した。沖島さんの言葉に感動した。本当に、今、人々が僕のところにどんどん集まってきてくれているのではないかという錯覚を抱いてしまうほど、大変なことになっている。トーク終了後、沖島監督自ら、一杯飲みましょうと誘っていただいたので監督と僕、梅山くん、先日自由大学で講義を受講してくれた角田さんと四人で宴。沖島さんの言葉にじっと耳を傾ける。しかも、沖島さんは僕の零塾にも反応してくれて、ぜひ自分もそこで教えたいと言ってくれた。なんて広い人なんだと思った。沖島さんと二人で石山修武さんのことも話した。二時間ほど話してお別れする。  その後、零塾を受講希望してくれている角田さんと二人で喫茶店に入り、面接。彼女はとても誠実に僕に思っていることを話してくれた。
「報道やドキュメンタリーに興味があり、NHKを受けたのですが、落ちまして、でも、やりたいんです」
 そして、彼女は自分が取り組みたいテーマを教えてくれた。それはとても誠実な思いのテーマであった。僕は同意したが、それはとても大変な仕事でもある。その覚悟がないととてもできないことだ。そのへんを聞くと、彼女は躊躇した。そして、そのことに対して、自分に納得がいかないような顔もした。そこで、僕はまず、本腰を入れる前に、自分が取りあげようとしているテーマについて既に書かれている本、描かれている映像資料を集め、すべて読破することを課題として挙げた。そして、NHKに行きたいというのはあまりにも曖昧な感覚だから、NHKの誰がいいのか、具体的に調べてくれとお願いした。フーの伯父さんはNHKの黎明期、日本の素顔の敏腕プロデューサーであった偉人である。もしも、彼女が会いたい人を見つけることができたら、絶対に会うことができるはずだ。
 まずは私淑する人を見つける。これが零塾の鉄則である。先人の偉業を知らないことには次の一手は打てない。そのへんを自覚してもらうことにした。彼女はまだ迷っている。おそらく、取り組もうとすれば、やめられない、自分がそれができる人間なのか迷っているのだろう。それを見て、僕はとても誠実だと思った。だからこそやってほしい。そりゃ、恐いですよ。言葉を発したり、報道をしたりするのは、時には人を傷つけることもある。自分が攻撃されることもある。しかし、その恐怖心は共有しよう、それが零塾の方法論である。恐れたときは助け合う。だからこそ、恐れずに立ち向かう。角田さんはまだ迷っていたので、即決せずに、一週間後に返事をくれと言った。どうなるか分からん。しかし、自分がやらなくては誰がやるのだという意識を持てるのであれば、何でもできる。若い人間と付き合うときには傷つけないようにしなくてはいけないことも最近学んでいる。しかし、徹底的にやらないと人の心には届かない。零塾は僕にとっての勉強なのである。
 家に帰ってくると、フーとアオがクリスマスの飾り付けを完成していた。色画用紙を切って、リボンに通し、天井の飾り付けをして、僕が作った紙ツリーにも飾り付けが。柊の葉っぱをフーが作っており、それがうまくて、こんなの買ったら何千円もするだろうなと思った。製作費は300円である。それを作るアオを見ながら、忘れることなかれ、と願う。今日はフー母も来てたので、一緒に暮らしたいという旨を伝える。黒澤明の家のように、毎日、僕の家にたくさんの人間が集まり、フーとフー母と僕の父母とアオが必死にみんなの分の食事を作っている夢想が頭をよぎる。吉祥寺で探そうとしている。気持ちの良い一軒家がないかなあ。庭なんかあると尚良い。僕は集落を作りたいんだ。

 2010年11月24日。今日は、何にもない日。の予定。ということで、朝からえっさと零塾連絡を行い、全部の人と連絡を取ったつもり。今のところ15人。その後、フーアオと三人で外出。今日は幼稚園の見学に。忌野清志郎さんの母園である「ふじみ幼稚園」に行く。いたって普通のなんてことはない幼稚園で、特に特色も無い。でも好感は持てた。アオを園庭で遊ばせる。幼稚園にも入れないなどとほざいていたが、それではさすがに友達作れないしなー、どうしようかなー、やっぱ入れようか、自分も幼稚園で育ったんだしと、最近は入園希望の様相。
 その後、帰ってきて、フー母が作った饂飩を食べて、昼寝をして、原稿。「生きのびるための技術」河出書房書き下ろし単行本。今はこれを書かないといけない。25枚ほど書き終えて、送信。のうえさんに電話。概ねオッケーとのこと。これを持って明日打ち合わせをすることに。太田出版の梅山くんから電話があり、明石家さんまさんの「ほんでっかTV」はとりあえず次週の収録の回は出演しないことに。打ち合わせの時に、かなりアドレナリンがすごいことになっていて、梅山くんに「ちょっとやりすぎです」と言われていたので納得。やはり狂人はでにくいんだなあと。これからテレビ制作会社との打ち合わせの時は、冷静を装ってやることに。ということは、その時もう一つ打ち合わせしたネプチューンの新番組の方も随分怪しい。ま、僕はテレビにあんまり出ない方がいいなとも思っているのでそれはそれでいいと思う。その後、映画に関してある方に相談をする。かなり的確な指導を受けた。今まで、色んな人と知り合ってきていて本当によかったなと思う今日この頃である。その後、暮しの手帖の村上薫女史と電話。幻冬舎の竹村さんとも電話。文庫化の話について。来年は、ちょうどテキスト系の著作が出版されて3年が経つので文庫化が解禁される。またこちらで一騒ぎしたいものだと願う。えりちゃんから、エスプレから出される三井不動産のムック本のゲラチェック。集英社「モバイルハウスのつくりかた」のゲラチェック。ホットカーペット用のラグを注文。今年の忘年会用に。
 その後、リトルモアの田中さんから日本テレビから出演依頼の連絡。やたらとテレビから連絡が来るようになっている。いつもの通り、話だけは聞かせてもらうことに。アオの大好きなトイ・ストーリー2を家族皆で観る。午後9時に駅前で日本テレビ系列の制作会社のディレクター二人と待ち合わせ。番組出演依頼を受ける。最近、来て頂くテレビディレクターの人に共通しているのだが、恐ろしいほど特徴のない人なのである。何か特に熱情に踊らされているというわけでもなく、テレビは斜陽ですというわりには、だからこそ無茶苦茶やりましょうというほど焼け糞でもない。なんというかフワフワしている。おいしいネタを探すハイエナように涎を垂らしているわけでもなく、どちらこというと真面目なサラリーマン体質の方たちばかりで、僕はいつもびっくりする。で、提案された案件が、ちょっと普通の建築の物件を僕が見て解説するというもので、その建築物件があまりにも普通なので、こんなのがあるんですけど知ってますか?といつものように僕からの怒濤のアイデア出し攻撃。で、それに結構反応している。とにかく、僕は出演しないけど、ネタなら腐るほど豊富にストックしているので、なんでも提供しますよ。仕事としてなら。と、押し売りのようになり、そんなことをしながら、僕は「ならば、放送作家にでもなればいいじゃないか」などと閃いてしまった。僕には取り組みたいテーマがある。持っている有り得ないネタがある。絶対にお茶の間をひっくり返すことができるはずだ。だから、紹介してくださいとお願いしといた。テレビはほとんどの人が絶望していると思うが、僕はそれを狙っている。弱体化している今こそ、本当に面白いテーマを提出すれば仕事になるはずだし、それは僕がやりたいことを伝えるにはうってつけのメディアでもある。なんてことを妄想しながら三人で話す。それは逆にとても面白かった。ということで、放送作家もやってみようと思いついた。
 サバイバル、法律とは一体何なのか、家とは一体なんなのか、お金って一体なんなのか。そのことをみんなで考えるのに適した素材は実は世の中にごろごろ転がっているのである。しかし、今テレビの世界は予算がなく、勢いがなく、若い人も安い給料で長い時間働かされているので摩耗している。今こそチャンスではないか。僕がやる番組はまず金がかからない。芸能人が出演する必要がない。しかも狂っている。無茶をやってみたい局がもしもあればぜひ一緒にやってみたい。でも駄目だろうなあ。彼らは中立と言う言葉に迷っている。恐れてしまって、萎縮している。そんな時こそ、いつ死んでもいいと思っている僕のような人間を前線に立たせればいいのになあと思う。でも、それを言うと、梅山くんは「やめなさい」と言う。クリスマスプレゼントでMacBook Airを買いたいと強請る。

 2010年11月25日。午前中原稿を書いて外出。午後12時に築地市場駅へ。朝日新聞本社にて矢部さんと久々に会い、歩いて築地の蕎麦屋へ。せいろを食べながら、近況について話し合う。零塾のこともしっかりと話す。その後、カフェでお茶を飲みながらさらに話をする。とにかく興奮しすぎているかもしれない。矢部さんも協力することあればしますとのこと。ありがたい。その後、一人で築地市場内へ。久々に昔働いていた職場「遠徳」へ。みっちゃんと再会。しばし話す。その後、仲良しだった「かねかつ」の中村さんにも会う。ノジさんにも会う。やっぱり僕はこの築地が東京での仕事の原点なのである。ここで働いていたのは7年前なのだが、いまだにみんなはあたたかく迎えてくる。そんな職場なんてないだろう。しかも、みんなから早く都知事になってくれと言われた。がんばらないと。
 その後、池袋へ行き、椿屋珈琲店にて河出書房ののうえさんと会う。書き下ろし単行本「生きのびるための技術」についての打ち合わせ。今のところ330枚弱書いている。ようやく仕事と労働という僕が取り組んでいきたい次のテーマに入ってきたので、そのことについて打ち合わせ。もっと自己啓発感を出していってもいいのかもしれないという流れに。その後、午後7時に集英社の飛鳥さんと待ち合わせして、池袋の劇場にて岡崎藝術座の「古いクーラー」を観劇。神里くんの演劇は初めて見たのだが、かなり面白かった。しかし、同時に自分が捉えている問題意識に取り組むのならもっと突っ込んでもいいのかなと思った。逆にナンセンスで通すなら、もっと徹底したほうがいいし、それでも演劇というものが持っている可能性は存分に感じられたので、僕として収穫があった。
 その後、飛鳥さんがタクシー送ってくれたので六本木まで。ライブハウス新世界にてceroのライブ。磯部涼と梅山くんと会う。ceroのライブもよかった。まだ音楽の中の音楽をやっているような気もしたが。音楽をもって社会と接するという気概はまだ感じられなかった。しかし、音楽性はとても好感が持てたので興味を抱く。その後、磯部夫妻、まりちゃん、あだちくんと僕とでサイゼリア。食い過ぎた。終電で帰ってくる。CINRA.NETからインタビューの依頼。快諾。

 2010年11月26日。午前中原稿を書いて外出。午後12時に国立駅改札にて八木さんと待ち合わせ。零塾の面接。彼女が今までどういう人生を歩んできたから話を聞く。
「マンションデベロッパーとして働いていたんですが、それだけやっていても、本当に何かがあった時に対応する人間の根源的な力が備わっていないと気付き、旅に出ることにしたんです」
「で、どこにいったの?」 「アフリカ行こうと思って、でもその前にふとブラジルにも寄ってみたんです。すると、そこで出会ってしまいまして、、、」
「ブラジルと?」 「はい。今まで全く興味を抱いたことがなかったのですが、ブラジルで音楽や人や街に触れていくにつれ、ここは自分が求めていた世界だったということに気が付いて。ダウンジェイトという言葉がブラジルにはあるんです。『何か一つぐらいやりようはある』という意味なんですが、それが心に響きまして」
 それはまさにレビ=ストロースいうところの野生の思考である。彼もブラジルの奥地である部族たちと出会うことで野生の思考、ブリコラージュという言葉と出会った。では、それを八木さんは一体、何を使って伝えていくかのか?
「方法はまだよくわかりません。でも行きたい場所ももう決めてます。その街がスゴいんです。」
「では、その街にできるだけすぐ行けるようにしましょうよ。で、課題はそこでやることを決めましょう。毎日2時間ぐらいできることがいいです。人と会わないと実現できないことが好ましい。そして、それを持って帰ってきて、日本でどのように伝えていくのかを考えましょう」
 ということになった。しかし、その前に八木さんは自分の働く環境の問題も抱えていた。そこがしっかりと基盤がないとやはり社会を変えるための運動は実現が難しい。そこで、まずは自分が働く環境を徹底的に更新するという約束をし、別れた。結局3時間も話していた。少々疲れて、そのまま電車に乗って国分寺へ。
 午後4時から武蔵野美術大学へ。今日は映画「死なない子供、荒川修作」のためのシンポジウムに参加することに。映画監督の山岡さん、荒川修作事務所の本間さん、ペーパースカイのルーカス、彫刻家でムサビの教授である伊藤さんと僕がパネラーでトークショーを行うことに。しかし、なかなか充実したトークショーを行うことはできなかった。まずは見に来ている学生たちが荒川修作を知らなかったこと。映画監督の山岡さんと僕と対話をした時があったのだが、山岡さんがしきりに歴史の中で荒川修作を語ること必要性を感じてくれなかったこと。荒川修作をただスゴい人ということしか言わずに、その作品がどのような位置にあるのかの議論が全くされなかった。むしろ、あの状態で、荒川修作に対してある批評をしていた僕は異常にうつってしまったのではないか。しかし、僕がそう言わないと議論にならなかったのも事実である。他の人が恐れてしまって、ただ賞賛するばかりで、全く納得がいかなかった。だから、その後の打ち上げでは反省会というよりも、付いてきた学生たちにしきりに僕は叱咤激励をすることにした。なぜ人は歴史を無視しようとするのだろう。それがあまりにも無知な作業であることに気付かなくてはいけない。はー、なんか疲れるトークショーだった。その話を振ってきた太田出版の梅山くんについつい八つ当たりしてしまった。そんな場所に僕を呼ばないでくれよ。ばか。みんなで褒めて楽しんで歴史を忘れて無批評でやるなら、頼むから僕は呼ばないでくれ。

 2010年11月27日。午前11時に国立駅で茶谷くんと待ち合わせ。エクセシオールカフェにて零塾面接。茶谷くんがやっていきたいことはファッションデザイナーになりたいということだった。そんな夢を持っているのに、僕のところに来るとはすごいなあと思って聞いていた。でも、彼はとても興味深い思考をしていた。しかし、まだ色々と知識がないことも事実であった。ギャルソンとマルタンマルジェラが好きなのだそうだ。ところが、そんな人はおそらく五千人くらいいる。それでは徹底されないので、服を作る前に、徹底的に歴史を調べたらということを僕は提案した。ギャルソンとマルジェラがどのような歴史を持っているのか、その都度どのような方法論で作品を作っていったのか、失敗しそうになった時どうしたのか。彼らが影響を受けたのは一体誰なのか。彼らはどういう本を読んで、どういう哲学でものを作っているのか。それを超えて、そもそも服とは一体何か?ただ身を守るところから、誇示したり着飾ったりするなど、変遷をどのようにしてきたのか。西洋と日本の違い、最近南米のデザイナーがすごいけどなぜなのか。そんなことを服を作る前に論文に書いてくれてとお願いした。昨日のあまり意味がなかったトークショーの反省もあったと思う。やはり徹底的に自分が立つべき位置を確かめる作業が若い頃には必要である。茶谷くんも納得してくれたようだ。一ヶ月後に結果報告をしてもらうこと。
 その後、茶谷くんと僕とフーとアオと四人で中一素食店にてランチを食べて、その後、家に帰ってきて、今日はゆっくりとp過ごすことに。BRUTUSの井手さんからメール。この前のインタビューの記事のゲラチェック。すぐに直して返信。路上力書かないといけなかったが、結局寝てしまった。明日からまたモバイルハウスを作ります。

 2010年11月28日(日)。今日は多摩川にてモバイルハウス製作。ロビンソンクルーソーの家へ向かう。僕のドキュメンタリー映画を製作中の監督も来て撮影。前回で構造体と屋根が完成していたので、今日から壁を作っていく。本当にロビンソンの家の道具のフル装備っぷりには驚かされる。ここには何でもある。小さい工務店よりかは充実している。その姿が借り暮らしのアリエッティの父さんのようにも見える。彼が持っている道具たちを見ていると、人間というものが道具を生み出しているという単純なことに感動してしまう。全部、ホームセンターで売っているはずなのだが、それと全然違うように感じられるのだ。
 そして、いつものようにゼロから僕に対して徹底的に大工指導。こんなこと手取り足取り教えてもらうなんて経験は他では絶対に無理だろう。彼と出会って、僕は教育という言葉が頭の中で浮かび出した。彼は僕に今、技術を継承しようとしている。そのことを感じ、同時に緊張もする。実は僕自身が零塾を受けていたのである。途中で中華飯店で麻婆丼を食べ、大ちゃんと話したりして、再開。無事に壁は完成し、その次にいよいよ車輪の設置。ロビンソンはなんと車輪を繋ぐジョイント部分の金具も自分で作ってくれていた。なんであなたはそこまでブリコルールなんですか!車輪の付け方もゼロから学ぶ。いやいやこれはスゴい家が出来上がるのではないか。しかも、全て製品ではなく部品だけで構成されている。しかも、総工費2万6千円。家なんてこんなもんである。みんな気付きなさい。目を覚ましなさい。3万円でお釣りがくるものを手に入れるために30年ローンとか冗談のようなことは言ってはいけません。
 無事に午後四時すぎに車輪までが完成。後は玄関ドアの作製、部屋の中のベッドと机と本棚を作製したら終了である。ちゃんと1ミリのズレもないように頑丈に作っているので時間はかかっているが、そのかわりスゴいものが出来上がっている。これが零塾の拠点になるので塾生のみなさんよろしく。来月はいよいよこのモバイルハウスを駐車するための場所探しである。今日は疲れたのですぐに家に帰ることにした。

10

 2010年11月29日(月)。朝起きて外出。午前10時に新宿駅ベルクにて美術評論家の小倉さんと待ち合わせ。ビール券を頂いたので、それで朝からビール飲みながら近況を話す。小倉さんは2002年の時点で僕の0円ハウスの前身の「東京ハウス」という卒業論文を見て、これは今後非常に重要になる仕事だと言ってくれた恩人である。小倉さんはもう70歳を過ぎているはずだが、僕にはとにかく若い少年のような視点と、熟練した思想家の視点の両方で接してくる。僕の知のパトロンの一人である。その後、中村屋でさらにしっかりと話す。イタリアの活動家や日本人の活動家などを紹介してもらう。読むべき本も教えてもらう。本当にこの人から学ぶことは多い。そんな人が「坂口に会いたい」と言っては電話をかけてくれて、僕のおかしな近況トークを楽しんで聞いてくれるのだから僕は幸せだなと思った。僕は僕自身よりも、自分の周りで僕に協力してくれる人たちに対して誇りを持っている。だからこそ不安が無いのである。
 小倉さんと別れて、伊勢丹のワイン屋へ。ここ品揃えもスゴいし、店員もよく勉強していてとても好感が持てる。ハザマの結婚祝いのために自然派でしかも自分一人で収穫、ブレンド、瓶詰めまでやっているという手作り感溢れる最高級シャンパンを二本購入。それを持って、久しぶりに初台にある僕の研究室に向かった。最近は、定点で仕事をするのが困難になっていたので、研究室には実は今年に入って一度も行ったことがなかった。ハザマとも久々に会う。二人である仕事のための契約書を作る。完全にフリーで、マネジメントも自分でやっている人間は、契約書ももちろん自分で作る。これからの仕事はそうしないと駄目である。僕も今回の仕事は今まで体験したことがない領域に突入しているので、とにかく勉強するつもりで手探りでやっている。こういう経験がまた零塾でも役に立つので、今の僕の仕事は一石二鳥である。無事に完成したので、午後6時に家に帰ってくる。
 午後6時からフーのママ友であるイクミちゃんとサッちゃんと旦那さんの三人が僕の家に来訪。ママ友たちとの夕食パーティー敢行。たまにはこういうのもいいなあ。大人がみんなでテーブルで喋っている時に、子供たちだけで離れて遊んでいる時って、今僕が思い返しても楽しかったもんな。アオとサッちゃんは興奮状態でなにかやっている。旦那さんはJRの社員をやっていてその話も面白い。サラリーマンなんだが、その内奥には表現したい欲望が感じられてとても頼もしかった。フーの手料理。ミートローフとコーンスープとサラダとフライドポテトとフライドスイートポテトに手作りチーズケーキ。感謝。みんなでギターをかき鳴らし歌ったりして午後9時まで盛り上がる。
 で、その後僕だけ外出して、午後10時前に原宿駅へ。VACANTにて雑誌エココロの5周年パーティーがあっているのでちょっと顔を出す。エココロとは本当に5年間ずっと仕事している。全く似合わないけど。フロアではDJ Shhhhhが回していた。担当編集のえりちゃんと会う。乾杯。まきちゃんもいた。工藤キキちゃんとは二人で、後半ページを堅く守っている守護神をお互い自認しているので記念撮影。キキちゃんの連載も無茶苦茶面白いので是非。後は、いつものシミ、シンゴ、しょうちゃん、峯ちゃん、アキラくん、ヤブノケンセイとかと会ってVACANT前で喋ってた。楽しい夜。その後、タクシーで峯ちゃんたちのスタジオへ行き、高級テキーラを飲みながら、また僕は一人で喋っていた。シミちゃんは、元々ギャルソンのところで働いていたので、零塾の塾生のことを知らせておいた。なんかあったらお世話してください。このように、零塾は大元の教師は僕一人だが、才能を持っている僕の友人、知人の方々も実は教師なのである。しかも、みんな零塾に興味を持ってくれる。終電で家に帰ってくる。

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 2010年11月30日(火)。朝から外出。多摩川ロビンソンクルーソーの家へ。集英社すばるで連載中の「モバイルハウスのつくりかた」のための家作り。もう佳境に入ってきている。今日は窓と机の製作。いやいや、今日もロビンソンのブリコルールっぷりに、驚嘆し、さらにとてもためになった日であった。潜水艦みたいに丸く窓を作りたいという僕の何も考えていない子供の要求をロビンソンはちゃんと受け入れてくれて、方法を教えてくれた。さらに机も。机の前にも横にも窓を付けた。この取り付け方もすごい。これはちゃんと紹介しなければ、ぜひすばるの連載を読んで下さい。午後3時半に作業終了。もうかなり出来上がってきた。ロビンソンも楽しそう。それを見て僕も勉強になるのでありがたいのだが、同時に嬉しい。こうやって人が結びつくこと、これが僕が得意な仕事なんだと自覚した。ケニアでも、モントリオールでも、トロントでも、熊本でもそうだった。僕ができることはこれなのである。僕の有り得ない希望を、世界各地のブリコルールたちに無理難題を注文する。そういえば、その手法はまさに師匠である石山修武さんが美術館の白壁を左官にやってもらったり、船大工に構造体を作ってもらったり、船鍛冶に建築の屋根の曲線をやってもらったり、してきたことを僕なりに踏襲していたのだ、とさっき気付いた。いつも気付くのが遅い。やはり師匠には感謝である。そして、僕はさらに思考と実践を前身させたい。
 新宿駅で降りて、紀伊国屋で「スペクタクルの社会」ギー=ドゥボール、「所有せざる人々」ル=グィンの二冊を文庫で購入。こういうのを文庫で買えるときっていつも嬉しい。この二冊は昨日会った小倉さんからの情報。あとハンナ=アーレントも読んでみないとな。僕は知らないことが多すぎる。その後、ドーナツ「オリジナルグレーズド」をアオのために買って、TSUTAYAでティンカーベルとノーカントリーを借りて帰る。家でカレーを食べる。
 先日面接した八木さんからメールが来て、なんと何年も決まっていなかった仕事が見つかったらしい。面接直後だったので僕は嬉しくなって電話した。そういうもんである。誰かに自分の幸運を伝えたいと思えるような人間を獲得したら、人間は強い。失敗できない。だからこそ幸運が振ってくる。だからこそ、人は人が重要なのである。仕事をするときは孤独でもいい。だけど、それを誰かに伝えたいのである。零塾はその「伝えたい誰か」自身に僕がなるという趣旨の塾なのである。須川さんと電話して、12月12日の零塾京都出張の詳細の打ち合わせ。関西方面で零塾入塾志望の人はぜひ。夜、また一人零塾希望者からのメール。太田出版から本が送られてきていた。雨宮処凛さんの「生きのびろ!」という本。奇しくも僕も今「生きのびるための技術」という本を書いている。みな同じ思いなのである。この本の中に僕のインタビューも掲載されています。フーがその表紙を見ながら「ちょっと、この表紙って君じゃない?」と言うので見る。今話題沸騰中の漫画家大橋裕之くんによる作品なのだが、見てみるとあらびっくり。なんと僕らしき人間と鈴木さんの家が描かれている。大橋漫画になったことに感激した。宝物にします。というわけでそんなものも楽しめるので、この本を見かけたら是非。

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 2010年12月1日(水)朝起きて原稿。熊本日日新聞から依頼されている2011年新年特別号での寄稿文。暮らしの再生について。1000字。生まれ育った熊本でほとんどの人が読んでいる新聞に書けるのはとても嬉しい。小学校や中学校のときにお世話になった先生や、高校時代の恩師や、友人、そしてなにより両親が読むので良い。熊本日日新聞の浪床さんと電話で打ち合わせ。来年から月1ぐらいで文化欄で原稿を執筆してくれないかとの依頼まで受ける。これは絶対にやってみたい。新聞で書くと本当に様々なお世話になった人に便りを送るようなもんなので、ぜひやりたいと言う。原稿書き終わり、送信。その後、外出。吉祥寺の八十八夜というカフェへ。熱烈な読者である大日方さんと河本ぼあらさんと初対面。大日方さんは僕の親と同じくらいだと思うのだが、とにかく若い精神を持ち、活発でエネルギーに満ち溢れている。やっぱり僕の読者って面白い。興味深い。てか全く普通じゃない。興味津々で話を聞かせてもらう。本当に最近、今まで話しまくっていた僕であるが、話を聞き始めている。色んな人々の色んな物語を。アオのために手作りのクリスマスカードまでくれた。大日方さんのお父さんが本当に興味深すぎるので、近日中に取材に行きたいとこちらからお願いしてしまった。
 その後、珍しく自由が丘へ。とよ田という唐揚げ屋さんへ行く。魔裟斗さんがいた。カウンターに座って砂肝、もも、手羽を食べる。ここほんとに美味しいです。堪能し、隣のbarで酒を飲む。全労済からインタビューの依頼。ちょっと有り得ないところからどんどん取材依頼が来ている。どれも興味深いので全部引き受けている。千葉工大の学生からも。零塾の入塾希望者も増えている。今18人ぐらい。

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 2010年12月2日(木)朝起きて、原稿。熊本日日新聞の手直しと、小学館月刊スピリッツ連載の「路上力」第17回目の原稿。路上における信仰について。1800字書き終わり送信。その後、ギー=ドゥボールの「スペクタルの社会」を読む。黒崎さんから電話があり、今日新橋でシネカノン代表で映画プロデューサーの李鳳宇さんの復活祭をやるから、お前ギターもってきてくれよと当日の依頼。ということで快諾。午後6時にセンター街の蕎麦屋「更科」で磯部涼と待ち合わせして、二人で蕎麦を食いながら酒を飲む。ゆかちゃんも途中から参加。三人で渋谷のライブハウスWWWヘ。今日はSIMI LAB、S.L.A.C.Kのライブ。PUMPEEにも会い挨拶。なんだろこのオッサンと思ってるんだろうなあ。でも彼の前で一曲歌って、来年はギターの弾き語りヒップホップアルバムを作りたいんだと伝える。笑ってたけど。SIMI LABのライブを見て、一時間ほど見て、渋谷を離れて新橋へ。「フートンマンダリン」にて李さんの復活祭へ。この前一緒にお酒を飲んだ日本たばこアイメックスの社長さんと再会。歌いに来たというと爆笑して喜んでくれた。トリで僕登場し「TRAIN TRAIN」を歌い、その後イムジン河を歌い、最後にアフリカの民謡を歌った。かなり盛り上がって黒崎さんが嬉しそうだったので満足。その場はすぐに離れ、また渋谷WWWヘ戻り、SEE-DAのライブを見て、SIMI LABのマリアちゃんに挨拶。磯部涼と「佐々木中さんも呼ぼうか」とか言っていたら、中さんがいたから笑った。ライブ後、僕と磯部涼と佐々木中のズッコケ三人組で「虎子食堂」へ行き、飲みながら、あーでもないこーでもないと話をしていたが、途中から中さんが店長の友子ちゃんの手相を見始めてから止まらないもんで、びっくりした。結局朝まで飲む。というか僕はずっとカルピスだったけど。

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 2010年12月3日(金)。朝起きて原稿直して、メディスンマンのところへ。メディスンマンに近況を話す。ちょっと最近飛ばしすぎなのではないかと指摘を受ける。フーも心配している旨を伝える。ちょっと抑え気味で行きなさいとのこと。了解。その後、家に帰ってきて原稿、ドローイング。熊本日日新聞の浪床さんと電話で話す。路上力の直しを送信。黒崎さんから昨日の歌についてのお礼のメール。ありがたい。京都のSOCIAL KITCHENの須川さんからメール。12月12日の京都ハローワーク、零塾出張篇の原稿確認。関西方面のお住まいのかた、是非いらしてください。
 午後1時に国立駅南口改札にて零塾面接。武藤さんという僕と同年の男性。面接だからというのでスーツで来てたのでびっくり。これから来る人、スーツじゃなくていいですから。一番楽な格好で来て下さい。ルノアールにて面接。
「では入塾にあたって、明確な社会に対する問題意識と具体的な解決策を言って下さい」
 しかし武藤さんは困っている。言葉が出てこない。ずっと待ってみる。しかしいつまで待っても彼は自分のやらなくてはいけないと思うことについて話すことができなかった。そこで僕が言った。
「零塾というのは人生相談所ではないんです。自分が何をしたらいいのかということに迷っている段階では、入塾は認められないのです。ここは人生実現のための場なので」
「はい、わかります。でも、、、」
 その後、彼から話をずっと聞かせてもらった。彼は迷っている。僕はある現実を見せられた思いがした。しかし、彼のことを知ってしまった以上、見捨てるわけにもいかない。プレ零塾としてまた仕事の見つけ方を教えた。彼にはちゃんと日課がなかったのでそのことを伝えた。一体、僕は何をしているのだろうか。しかし、このような人が多く苦しんでいることも事実なのである。放っておくと大変なことになる。とにかく月に一度、僕と決めた約束を守って動いてもらうことに。とにかく知ってしまった以上、やることはやります。でも、それは本当は、自分の周辺の家族と相談するべきだし、友人たちと話し合うべきである。それを僕のところへ持ってきてもどうしようもない。だが、それができず、迷っている人がいることも知ったので、対策も練っていかねば。現実は結構大変なことになっているのかもしれない。路上生活者ばかり追いかけて希望に溢れていたのだが、これはもっと現実にコミットしなくてはいけないのかも。
 その後、午後3時にルノアールにてNHKの井上さんと待ち合わせ。太田出版の梅山くんも来た。零塾塾生、都市型狩猟採集採集民、そしてそれらと付き合う僕に注目をしてくれており、新年用の番組で放送したいとの依頼。快諾するも、やはり僕の仕事はなかなかテレビに出すのは難しいところもある。そこで意見交換。無事に企画が通ることを願う。その後、梅山くんと来年始まる新雑誌について打ち合わせ。これはとにかく大変なことになる。いや、大変なことにしなくてはいけない。僕と磯部涼と佐々木中さんと杉田俊介さんと岡田利規さんと石川直樹くんといましろたかしさんと長尾謙一郎さんなどとやろうとしている。本当に面白い、そしてちゃんと長い論稿で勝負するような雑誌を。しかも、出資してくれるところからも話が来ている。協力者も集まって来ている。やらねば。年内に決起集会を開く予定。
 その後、築地へ行き、翼の王国の卓ちゃんと待ち合わせ。築地の飲み屋で榎本さんを紹介される。BRUTUSで先日お世話になった井出くんも来ていた。築地のムック本を作ろうとしているらしく、執筆依頼。僕は築地で二年間ほど働いているので、僕にしかできないこともあるだろうと快諾した。井手くんとスイスのコミューン、アスコーナの取材にBRUTUSで行きたいと叶うのがちょっと難しそうな依頼をするも井出くんまんざらでもなさそう。卓ちゃんから驚くことを聞かされる。僕が提案していたインドネシア企画は無事に流れてしまったのだが(あまりにも危険なため)、そのかわり別のインドネシア企画が通ったので、今月中にインドネシアに行かないかとの依頼。しかし、今月はかなりスケジュールが厳しいので、行きたいのはやまやまだが、どうなるか。スケジュールが合えば、いくことに。いやいやメディスンマンが休めと頭の中で言っている。しかし、体を動かしたい。そのせめぎ合いで苦しむ。
 その後、卓ちゃんと榎本さんと三人で中目黒へ。PUBLIC IMAGEのスペースで森山大道さんやアラーキーさんやら佐内さんや長島さんや東信さんのインスタレーションなどの作品展を見る。ディクショナリーでお隣さんのダブルフェイマス坂口修一郎さんと初対面。しかも鹿児島出身。卓ちゃんも紹介してもらう。その後、PARCOの高野さんにも会う。

15

 2010年12月4日(土)。朝起きて、小学館「路上力」連載17回のためにドローイング。完成し送信。午前11時に国立駅前のルノアールにて零塾面接スタート。まずは蕪山くん。彼は以前自由大学で「0円ハウス学」も受講してくれている。彼は音楽家になりたくて、ずっとバンド活動もしていたが、芽が出ずに今は就職してバンド活動は休止しているとのこと。でも音楽はやり続けたい。しかし、それが社会にどのように作用するのかということまでは分からない。
「音楽で何か実現したことはありますか?」
「一度、映画のサントラを作らせてもらったことがありまして、それは上映されたし、DVDにもなって、ギャラは貰えなかったんですけど可能性は感じました」
「それはいいですね。ではそのサントラ作りから始めて少しずつ音楽で社会とかかわっていくのはどうでしょうか?」
「それができたらとても素晴らしいと思います。黛敏郎が好きなんです」
「じゃあ、徹底的にまずは調べよう。あと笠置シヅ子と服部良一も調べてみては。そして、いつか自分が映画音楽を作って見せに行けるように、現存する日本人映画監督の中で一番気になる人を見つけ、その人の映画も全部見て調べて。まずは歴史から行こう。では一ヶ月後に結果報告してください」
 一度うまくいっているのだから、可能性は高い。でも、自主制作の映画のサントラを作る時にも、モチベーションをあげるために先人の仕事を勉強しておかなくてはいけない。零塾では徹底してこのことを伝えていくつもり。
 次に来たのは、なつめさん。友人の19歳であるげんちゃんと一緒に来た。
「私は山口県の祝島の魅力に取り憑かれてしまって、どうにかそこの良さを伝えたいんです。しかも、今祝島には原子力発電所が作られようとしていて。それの反対運動にも協力しているのですが、ただ反対するというのも違うなとも思っていて。それよりも祝島の素晴らしさを伝えたいんです。それが分かれば、誰もそんなところに原子力発電所を作ろうとは思わないはず」
 それをどうやって具現化するのか。彼女は、祝島について考えるシンポジウムを東京でやりたいと言った。以前やった時に祝島のおばちゃんから鯛を送ってもらったのだが、その鯛が美味すぎて感動したらしい。シンポジウムで原子力について語り合うだけではなかなか浸透力がない。そこで、祝島の良さを前面に出して、原子力なんて一言も言わないようなイベントを企画してはどうかと提案した。
「その企画書を一ヶ月後までに書いて下さい」
 僕の頭の中には黒崎さんにこのことを伝えたら、絶対に協力してくれるのではないかという確信があった。祝島に住むブリコルールたちの技術を紹介し、祝島で採れた山の幸海の幸を使った料理を食べられるようなイベント。というか僕も魚を食べてみたい。反対運動よりも、徹底して良さを価値をアピールしたほうがよい。僕も自分の本では、政府のやり方よりも路上生活者の技術の素晴らしさを書くことに集中している。しかも、僕の本を東京都の建設局の人たちは全部持っているのだ。それが直接ではないと思うが、それにより彼らはいまだに追い出されていない。彼らの価値が伝わっているのだ。しかし、みんな色んなことを考え出すもんだ。零塾ってやっぱり面白い。
 次に来たのは、スズヨシさん。彼は以前から僕が「仕事」と「労働」について日記で書いているときによく反応してくれ、メールを送って来てくれたりしている。明確な問題意識と具体的な方法論を教えて下さいと言うと、それはまだよく分かっていませんという。しかし、彼の言葉からはコーヒー豆に対する思い、システムを作ることの面白さ、カメラ、インターネットなどに対する嗜好などたくさんの可能性のある言葉が飛び出てくる。しかし、それを彼は趣味だと思っているのだ。僕はこの世に趣味というものは無いと思っているということを伝えた。0円ハウスを取材しているのも、はじめは趣味だと思っていたのだ。しかし、やればやるほど、その対象に気付いたことが自分の人生にとんでもない意味を与えていたを知ったのだ。だから、自分が楽しい、興味がある、笑ってしまうということには必ず意味がある。そこから、それらを結びつけることで自分にしかできない社会的な活動が見えてくるはずだ。彼には、一ヶ月後に自分が何をすべきかを具体的に提案できるように1000字のレポートを書いてもらうように指示した。
 四時間半の面接が終了。ルノアールから出る。コーヒー代を払う。フーに「それって零塾じゃなくて、マイナス塾なんじゃないの」と突っ込まれる。ちょっと待っててくださいな。僕は製作費とすら思っているところもある。それぐらい零塾の可能性を感じている。ここまで、人間というのは悩み、そして同時にここまでバラエティに富む夢を抱き、社会の役に立ちたいと思っているのかということに関心を抱いている。彼らにはそれでお金を稼ぎたいという思いはどちらかというと薄い。それよりも、何か間違っていると思うことをどうにかして変えたいと思っているのだ。そんな気持ちを持っている人間をどうして放っておけよう。僕は協力しなければいけない。そこに大きな可能性も感じている。面接後、フーアオと一緒に喫茶して、家に帰ってくる。今日は熊本から親父と母が来訪してきてので、亮太とゆうちゃんも来て、みんなで夕食を食べる。週刊朝日の記者からメール。1992年に廃刊した「朝日ジャーナル」を復刊させようという動きが起きているらしく、その復刊号でぜひ「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」のアイデアを記事にしたいとの依頼。快諾する。来週、会うことに。とにかく、今、インタビュー、取材、仕事依頼、テレビ制作依頼と、過去にないくらいに殺到している。これは何かの前兆であろうと予想している。フーに怒られながらであるが、勝手に12月中にも予定を入れちゃっている。今年は最後までとにかく仕事をしよう。そして、来年、ちょっとだけヴァカンスしよう。

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 2010年12月5日(日)。今日は午前中休みを取った。最近、周りから動きすぎと注意されているので、ゆっくりと休む。でも、意外と自分ではゆっくり動いているつもりなのだが。フー曰く「自分では分からない。君は今、完全に躁状態ですよ」だそうだ。一応、他者の意見に耳を傾けることに。午前10時頃外出。フーアオと一緒に八王子の東急スクエアへ。明後日フーアオのクリスマスプレゼントで行く予定のディズニーランドのチケットをディズニーストアで購入。その後、8階にある愛用しているアヴェダのワックスと櫛を購入。ハンバーガー食べて、僕だけ零塾面接のために国立へ戻る。ところが、眠くて寝ちゃいまして、起きたらお茶の水でもちろん待ち合わせの時間を過ぎていた。すんません。
 午後3時に国立駅で入塾希望の東くんと待ち合わせ。いつものようにルノアールへ。零塾面接。彼は慶應のSFCの建築を卒業したそうだ。今はNPO法人で働いている。
「今、横浜市内にある、コミュニティスペースに興味を抱いており、それらを調べたいと思っているんです」
 しかし、僕は彼から送られて来ていたメールに掲載されている、道端に勝手に置かれている椅子をマッピングしたフィールドワークに興味を持っていた。
「東くんが送ってくれた椅子の地図、よかったよ。で、またその仕事を終わらせて新しく作業するよりも、もっと自分が最初にやった仕事を掘り下げていかないと、自分の考えていることで社会を変えるような行動力は生まれてこないと思うんですよ」
「そうですよね。だけど、そんなこと考えたことありませんでした」
 みんな、学生の時には学生らしいこと。初期衝動で感じたことは初期衝動らしく、行動してしまう。それでは、とても高いハードルは越えられない。自分が一体なぜ、その作業をしようと思い立ったのか。そのことの根源的な意味を問う作業を怠るから、みんな結局は関係ない仕事について、趣味で自分がやりたいことやったりするのだ。徹底して、自分の初期衝動の意味を探る。僕だって、なぜ0円ハウスを始めたのかを考え続けて、もう10年経っている。しかも、まだ0円ハウスをやっている。そんなものである。だからこそ、東くんが抱いている最高の直感を、僕の指示で伸ばしてもらうことにした。零塾では自己の思いを極力避けてもらっている。それよりも、常に他者の言葉に耳を傾ける。自分の知らない自分も自分であることを自覚してもらう。しかも、そう言うと東くんは腑に落ちたような顔をして、光り輝いた。
「分かりました。椅子のシリーズを伸ばします」
「それは僕が一坪遺産でやっている『都市の新しいレイヤー空間を探す』というテーマの延長でもある。椅子だけでなく、テーブルもあるかもしれない。一日中暖かい場所もあるだろう。雨宿りするところもあるだろう。煙草屋なのになぜか酒が飲めるような場所もあるだろう。このように、都市というのは別に公共施設を新しく作らなくても、ある種の公共性を持っている。それを人々に気付かせられるような地図を作ったら?」
 彼は石山修武に憧れ、そしてパタンランゲージのアレグザンダーにも影響を受けている。狙っているところはかなり面白い。もう少し徹底すれば、十分社会に対してインパクトのある提言ができるはず。十年ぐらいかけるつもりでやりなさいと伝えた。自分で稼ぐ術は身につけている。しかも、自費で雑誌を出版したりしていて、行動力はいいものを持っている。ならば、一つに徹底して、それを作成し、雑誌を作り、それをもって出版社に持っていって本を作ってみようと言った。しかし、本も一冊だけ書いて喜んでいるような人間になってほしくない。一生やるんだよ!頼むよ!と葉っぱ。
 午後4時半まで。その後、神部くんが面接に来た。彼はなんと国家公務員。職種はとても書けない。しかし、かなり面白いバックグラウンドを持っている。その仕事をしている過程で、彼は小説が浮かんで来たらしい。創作をしたいと思い立ち、即興の詩吟、作曲、バンド活動、水墨画ライブペインティングなどあらゆるクリエイションを行っている。曲だけでも100曲あり、小説は長編、短篇含め5、6本ほど書いているそうだ。
「でも、ちょっととっちらかっているから、生活を単純化しよう」
「単純化?ですかあ」
 そこで僕は「森の生活」を書いたH.D.ソローの僕がいつも復唱する言葉を伝えた。
「生活を単純化するにつれて、宇宙の法則は以前ほど複雑には思われなくなり、孤独は孤独でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でなくなるであろう。たとえ空中楼閣を築いてしまったとしても、その仕事が無駄になるわけではない。もともと楼閣は空中に築いていくものなのだ。今度はその下に基礎を固める番である」
 僕は、以前高円寺3万円ボロアパート時代に、自殺をしたいという初対面の隣人から相談を受け、5年の引き籠りから脱出する方法を教えた。仕事なんて見つけるのは無茶苦茶簡単である、と。3つの条件を絞り、それにあてはまるものだけを探しなさい。3つ。それこそ、人生を実現するための必要な条件である。そこで、トヨちゃんというその彼が言った。
「パソコンを使う仕事が好きなんです。そして、英語を使いたいんです。そして、高円寺から自転車で通える距離の会社が良いんです」
「そうですか。それなら、今日から毎日ハローワークに行って、1、パソコンを使う。2、英語を使う。3、中央線沿線。の3つの条件に絞って仕事を探して来て下さい。一ヶ月以内に絶対に見つかるから」
 半信半疑なトヨちゃんは僕に言われる通りに実行しては、毎日結果報告しにきた。最終的に、3週間後彼は仕事を見つけた。それは中野駅徒歩5分の材木屋の二階を事務所にしているアメリカ人が社長のアメリカと日本との貿易関連の仕事であった。もちろん、仕事内容はパソコンで英語を使ってやり取りをするというもの。そんなものである。ソローの教えに従い、人生を単純化すれば自ずと人間は実現することができる。そして、僕はトヨちゃんにこう言った。
「トヨちゃん、でもそれはただ労働としての仕事を見つけたという実現にすぎないからね。自己実現したら、次は社会実現をしなくてはならない。それは人間の使命なんですよ。だから、トヨちゃんその仕事がうまくいくようになったら、今度は社会のために行き始めて下さいな。そちらもまた単純化の法則を使って、徹底的にね」
 その後、トヨちゃんとは会っていない。時々、便りがくるが幸福そうでなによりではあるが。
「3、ですかー。それってもう宗教じゃないですか!」
「THREEっていう新興宗教でも立ち上げようか?ってそれは冗談だけど、それで大抵はうまくいくので、神部くんもそれでいこう」
「はい」
「まず、出力が多すぎるから、今月は一切創作をしないこと。そして、今読んでいるといったヴァージニア・ウルフが面白いんだったら、全集全部読みなよ。あと、国家公務員繋がりでカフカも全部。それでそれぞれ一編ずつ気に入った作品を選んで、1000字ずつのレポートを書いて下さい。そして国家公務員の仕事はとにかく真面目にやること」
「創作をしない。カフカとヴァージニア・ウルフの全集を読みあさる。国家公務員の仕事に集中する。この3つですね」
「いいねえ。それでいこう」
 どんどん実現していかなくてはいけない。人間が向かっていかなくてはならない問題とは、もっと大きく、簡単にはクリアできないものである。だから、一歩一歩やらなくてはいけない。3。THREE。ソローをもっとよく読もう。
 結局午後7時まで面接しちゃった。帰りに、神部くんの小説を読んだ。これがすこぶる面白くて、僕の信頼する担当編集者に渡したいなと思った。なんだなんだ、みんな。やばいじゃないか。一体、人間はどうしてこうしてここまでマグマが吹き出す寸前になっているのか。零塾の可能性を日々感じている。ちゃんと冷静に、コントロールして、やっていこう。いつか、ちゃんと伝わる日が来る。僕だって、貯水タンクに棲むというビデオ作品を作ったのが19歳の時、あれから13年経っている。今ようやく、僕の放つ言葉は少しずつ伝わり始めている。諦めたら終わりである。彼らの思いを、認識し、知覚する。その作業が僕の役目なのである。人々の思いが、帰り道の国立駅周辺でも僕には感じられた。見えないけれども蠢いている。何かをしなければいけない。全ての人がそう思っているのである。そんな人はぜひ、零塾へ来て欲しい。どんなに無力と思われても、気にしない。僕には確信がある。どうせ、一年や二年ぐらいじゃ伝わらない。しかし、この活動を死ぬまで一生続けていけば、人々は気付くだろう。これまでの日本の歴史上で生まれて来た私塾だってそうだったのだ。緒方洪庵の適塾だって、吉田松陰の松下村塾だって、勝海舟の氷解塾だって、荻生徂徠の護園塾だって、シーボルトの鳴滝塾だって、杉田玄白の天真楼だって、福澤諭吉の慶應義塾だって、熊本でやっていた徳富蘇峰の大江義塾だって、元はそうだったのだ。僕はやめない。行動をやめない。発言をやめない。執筆をやめない。対話をやめない。歌うことをやめない。踊ることをやめない。人々を愛することをやめない。アオは、今日も家で僕の真似をして「仕事をしよう」と言ってはブロックで家作りをしている。そうだ、そうだ。やめるな。行動をやめるな。そして、先に行動を起こしている人間は、若い人々のためにしっかりと背中を見せ続けることだ。僕の執筆を中心とした表現活動と都市型狩猟採集民たちのフィールドワークと零塾と子育ては、同一線上にある。様々なレイヤーに存在しているが、ただ一つの一点だけで混ざりあっている。僕はそこに一つの可能性を既に見つけている。だからこそ、何か伝えることができるはずだ。責任を持ち、そして、人々の可能性を感じれるような人間になりたい。誰も振り向かれたことのない人間の持っている光を感じれるような人間になりたい。まさに人間になりたい。

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 2010年12月6日(月)。今日は朝から多摩川へモバイルハウスを作りに行こうとしたが、ロビンソンに電話するとどうやら風邪を引いているらしい。なので中止。午前9時に外出。両親と一緒に新宿へ。母ちゃんの友人である吉村さんに久しぶりに会う。吉村さんは、僕が高校を卒業した時に、吉阪隆正関連の本を入学祝いでくれた。この本が、僕がその後建築のことを考えるきっかけになっている。近況報告。
 その後、初台の研究室へ。ハザマにお願いしていた契約書のプリントアウト。今日は久々に研究室で仕事をする。オランダ、ユトレヒトから連絡。来年ユトレヒトに行ってワークショップ、フィールドワークなどをする予定なのでその打ち合わせ。キュレーターのマイコは日本語が喋れない日本人なのだが、とても知的な人なので一緒に仕事をするのが楽しみである。奈良県立情報館で開催される来年のトークショーのための書類作成。トークショー次いでに、フーアオも連れて行って奈良京都大阪旅行をする予定。ナンペイから連絡。かれが取り組んでいた僕も参加しているアートマガジンが完成したとのこと。こちらは日本の古本屋ユトレヒトで展覧会をするとのこと。来週、エココロ誌上で建築家の藤村龍至さんと対談をするのでその準備。著作二冊を読んでいる。先入観からちょっと避けていたのだが、その必要がないことを了解。というかかなり面白い。対談が楽しみである。
 午後3時外出。午後4時に品川へ。ある壮大なプロジェクトのための打ち合わせ。僕が作った契約書を読んでもらいながら、どういう契約をするかの相談。で、着地点が見つかり、契約成立。来年これはとんでもない方向へ動くことになると思うので乞うご期待。春前には発表できると思います。
 その後、午後6時頃に恵比寿へ。磯部涼と二人で寿司屋で夕食。その後、ササオも来て、さらに佐々木中さんも来て、四人で会食。その後、韓国料理屋で鍋をつつきながら話す。その後、餃子屋で餃子を食べながら話す。終電まで。

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 2010年12月7日(火)。朝6時半起床。今日は一日休み。で、ディズニーランドへ。相当久しぶり。午前9時半、舞浜へ。アオ、初めての夢の国。チケットは先に購入していたのでスムーズに入園。12月のクリスマスバージョンの時に行きたかったので、混雑予想で一番少ない日だった今日行くことに。予想通り、ちょうどよい人手。まずは、アーケードの中の手紙を書けるところでフー母、僕の両親にアオの絵入りの手紙を書く。専用の机で。消印がミッキーの手紙が送られる。その後、隣のワッフル屋で、ミッキー型のワッフルを食べる。これが美味。その後、まずはアオが大好きなバズ・ライトイヤーのアトラクションのファストパス優先権を獲得、その後、朝一発目から始まるホワイトホリデーパレードを鑑賞。これがスゴすぎて感動。ティンカーベルにも会う。ウッディもいた。
 次はイッツ・ア・スモールワールドへ。クリスマスバージョン。その後、ピーターパンの冒険。アオは怖がる。やっぱりディズニーランドって二歳の子供には時折、悪魔的な恐さも感じるらしい。アオは完全にサイケデリクスな体験をしている模様。リラックスするためにダンボに乗って空を飛ぶ。そして、トゥモローランドへ移り、バズライトイヤーのアストロブースター。その後、アドベンチャーランドへ行き、一週間前から予約しておいたブルーバイユーレストランでランチ。ここはあのカリブの海賊の船から見える、幻影的なレストラン。小学校の時に行った以来いつか行きたいと思っていたので嬉しい。まるでアフリカのサファリ冒険をしながら、南方異国の不思議なバザールで食事をしているような気分。ある意味、都市の幸的な空間構成。値段は高い。雰囲気は完璧。味はファミレス。しかし、そんなのを気にしないほど満足できた食事だった。
 そのままアドベンチャーランドを続ける。ジャングルクルーズにその上のウエスタンリバー鉄道も。その間にとっておいたホーンテッドマンションのファストパスを取っていたのだが、アオが恐がりよむなく断念。カリブの海賊も同じくアオが恐がり断念。そこで気分転換で、ミッキーとミニーたちと子供たちが戯れることができるスーパードゥーパージャンピングタイムを見て、トゥーンタウン(協賛は講談社)へ行き、ミニーの家で写真撮影し、さらに隣のミッキーの家、ミートミッキーに並ぶ。ここは今日でさえ60分待ち。そのかわり絶対、ミッキーと会えるし、しかも独り占めできるので、家族で高ぶる。ちゃんと四人で写真撮影も敢行。サインまでもらった。やっぱりアオがいると、ディズニーランドが無茶苦茶面白く見える。フーと二人の時には、一度も行ったことがなかった。子連れだと最高だな。ドナルドダックの蒸気船にも乗る。
 次はお待ちかねの復刻されたキャプテンE.O。製作総指揮ジョージ・ルーカス、監督フランシス・コッポラ、主演マイケルジャクソンって。いやいやすごかった。その後、モンスターズインクの新作アトラクションも行く。午後7時半からはシンデレラ城前の特等席にてエレクトリカルパレードを堪能し、その後、僕が大好きな、人気がなさすぎる魅惑のチキルーム(スティッチバージョン)を鑑賞し、ちょうどその裏側から上がる花火を家族三人で見て、感動し、フィナーレ。お土産買って帰って来た。ここまで徹底してディズニーランドで遊んだのは初めてだったが、徹底すればするほど面白いのだということに気付いた。まさに合法的な麻薬である。しかも、家族三人で同じ夢が見れる。あまりにも危険だが。午後9時に夢から醒める。

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 2010年12月8日(水)。午前10時に国立駅でアジールの村田さんと待ち合わせ。そのまま、駅近くの会議室へ移り、全労済のウェブサイトのためのインタビューを受ける。全労済から仕事を依頼されるって、一体どんな時代になってきたんだろう。しかし、それだけ切羽詰まっている、そして、ある種の救いを求められているということなのかもしれない。全労済の方二名、ライターの方、カメラマン、村田さんの総勢5名。そんなインタビューもなかなかない。インタビュー開始。最近、とても興味深いのは、もう0円ハウスについての詳細な質問などはほとんど無くなっているということだ。むしろ、僕がどうやって修業時代を過ごしていたか、いかに生き延びて来たのか、そして、これからどういう社会を作りたいと思っているのか。どのような変革が求められるのか、そして、君が今やっている零塾とは一体どんなものなのかという質問が飛び交う。ライターの方は建築に興味があるらしく、建築的な思考についてもかなり突っ込んだ質問が。とても楽しかった。1時間半ほどみっちりインタビューを受ける。黒川紀章との共通点があるのではおっしゃっていた。もちろん僕は多大な影響を受けています。そして、同時に批判精神も持っている。岡田斗司夫さんの発言とも重なる部分があるそうだ。ちょっと岡田さんをチェックしてみよう。
 その後、一度家に帰ってきてから、飯を食べて、アオに行かないでと絶叫されながら、外出。辛いよ。午後2時に千駄ヶ谷スペクテイターの事務所で編集長の青野さんと、自由大学にて僕の学生だった植田くんと打ち合わせ。来年始めに開催しようとしている筑波でのトークショーのことで。植田くん、まだまだ甘いところがあるので、徹底的に質問し、もっと良くなるのではと突っ込んだ。筑波でしかできないことをやろう、と、そのためにはフィールドワークが必要だということになり、さらに調査を続けてもらうことに。せっかくやるんだったら、ガタガタ震えながらやるような、恐怖心とちゃんと対峙しなければならない。そんなことに立ち向かわないで、どうして社会と対峙できよう。がんばれ!しかし、徹底してやってくれよ!  午後5時に新宿へ向かい、中村屋の地下一階の喫茶店である人と待ち合わせ。彼と作戦会議。もちろん、やろうとしているのは、僕が首謀者として発起しようとしている新雑誌の創刊である。来年春頃へ向けて創刊号を考えている。始めは自費出版でやろうとしていたのだが、やはりせっかくやるのだからでっかくいこうぜということで、あるところへプレゼンしたところ、可能性があるかもしれないというところまで来たのだ。執筆者をどうするか、雑誌の性格をどうするのか、ワクワクしながら話し合う。なんじゃこの高揚感は。今、僕は危険なことに、とにかくいくつもの新しいことを始めようとしている。来年は、映画、新雑誌、零塾と今までの人生でやったことのないことばかりに手を付けようとしている。まあ、それができるような技術が身に付いたと自覚しているからやってはいるのだが、なんせ初めての体験なので、緊張もしているし、恐怖心ももちろんある。でも、雑誌は本当に楽しみだ。
 有り得ないものを作ってみたい。ケチ臭くないものを作ってみたい。そして、みんなで忙しく働いてみたい。若いやつが、あの雑誌に寄稿したい掲載されたいと興奮して作品を持ってくるような雑誌にしたい。明日死のうと思っている人間に、ちょっと待てよ。もっと死にそうなやつらがここで必死に原稿書いてるぜと思わせるような雑誌にしたい。
 打ち合わせ後、新宿の高級蕎麦屋で二人で飲む。三十路過ぎた男二人で、恥ずかしながらも夢を語って話し合った。そんなことが可能になりそうな時代になってきたとも言える。今、本当に技術が求められている。死なない方法が求められている。むしろそれは救いなのかもしれない、と今まで僕が意識して避けてきた言葉が出てきているのを実感している。しかし、歩みを止めずに、進んでみよう。そこに何かがあるから行くのではなく、恐怖心を持っている人たちの肩をポンと叩くような気持ちで進んでみよう。実践ができる言論。肉体性を持った思想。生きのびるための技術。そのような雑誌を作ろうとしている。うまくいくといいがとも思うが、うまくいくしか考えられないとも思う。近日中に執筆者を決定し、中旬には決起集会なる忘年会を開こうということに。誘われた人たちはぜひ緊張してください。もうやらないといけない。行動しないといけない。ちゃんと言葉を人に届けないといけない。そして、やはり楽しまないといけない。高揚して別れる。
 夜、磯部涼に電話する。杉田俊介さんに電話する。いましろたかしさんに電話する。石川直樹に電話する。それぞれみな興奮してくれた。さあ、いよいよやるよ。動くよ。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-