坂口 恭平 エッセイ

直観散歩

 道を歩いていると車道を挟んで向こう側が気になってしょうがない。色んな店の明かりが目に映る。いつも僕は向こう側の方に行きたくなる。こちらにもあるのにだ。それで、信号を渡ってその憧れの場所に立つ。すると、向かい側が気になってしまう。やれやれである。どうやら僕は、物理的ではない「向こう側」に行きたいらしい。

 旅していた時、尾道にたまたまふらりと立ち寄った。そう、あれは19歳の時である。尾道は初めてだった。あの頃はどこも初めてだったのである。ボロボロの原付バイクを修理してもらい熊本から東京までバイク旅行している途中だった。台風が鹿児島辺りから僕を追っていた。僕のボロ原付27号は時速45kmも出れば調子がいい方だった。尾道でしっかり台風に並ばれてしまった。そうそれでふらりと、いやふらりとじゃない、必死である店に入った。そこは古着屋さんだった。恐らく台風で寒くなるだろうと不安になった僕はなけなしの金でトレーナー的なものを買わなければと思い、その店に入った。で、入るとオランダ軍の装備を身に纏っていた僕にビビった店長がすぐに話しかけてきた。僕は、アディダスのトレーナーを買った。その後、「おい、飯食いにいこうぜ」と言われ、すぐに友人がボロボロの四角い銀色のVOLVOで迎えにきた。大将と呼ばれていた店長に母さんがやっているという焼肉屋に連れて行かれ、その後尾道の隣町である福山に高速で向った。そこにはまた友人たちが待ち受けていて10数人で純喫茶の上にあった雀荘に入った。そこはみんな常連のようで、店の人とわいわいやりながら4つぐらいのテーブルを使っていきなり麻雀大会が始まった。麻雀をまだ会得していなかった僕は,その盲牌をしている大将たちにノックアウトされた。周りの軍団の顔それぞれに漫画の主人公と仲間たち、例えて言えばウォーズマンを初めてみた時のあのキン肉マンの初期単行本がもっている世界観が漂っていた。僕はその「向こう側」に行きたくなった。しかし、僕はどうやっても常にストレンジャーな気分から抜け出せなかった。あれから尾道にはよく通うようになった。そうすると、あの一番はじめに体験した街の印象からはまた変化していた。僕にとっては完全に一変した。今の街も素晴らしいが、何といってもあの初めての瞬間。あれは一体何だろうと思うのだ。

 その後、僕は色んなところへ行き、その都度そういう体験をしてきた。同じ場所なのになぜこんなに体感空間が違うのだろうか。そして、そのように初めてでビンビンになっている僕と地元の人間とは当然街に対する印象も違うわけで、僕はその違いとかがとてつもなく深遠な宇宙のように感じられるときがある。この前ナイロビに行ったときもそうだ。この街を慣れ親しんですんでいるトニーたちが不思議でしょうがなく見えた。僕はいつもそういう時にクリエイティブになる。何か作らなくちゃ、この瞬間を留めとかなければという焦燥感に駆り立てられる。こちら側と向こう側の境界線。僕はいつもそこが気になっているような気がするのだ。それはまた不思議なことに物理的なものではない。向こう側にいけば感じられるものでもないこともこれまでの体験で分かってきた。最近はそれを実際に体験することが重要ではなく、むしろそれを体験したいと欲する自分の精神状態にある種の空間が発生していることを知覚してきた。これは自分にとって大発見であった。

 自分が知らないことで、或いは知ってしまうことにより生じる心的空間。それは自分の記憶、それまでの体験、自分とは違う人間だったらどう感じているのだという想像、そして自分が夢で見たきた実際には見たことが無いけれども懐かしいと感じてしまう場所性のようなもの、、、そんなものがごちゃ混ぜになった複雑な多次元の世界である。その状態で風景を知覚しているのだから、全てがはっきりと見えるのだ。だから、初めて行ったときに適当に無意識に訪れたカフェの一軒が本当に忘れることが出来ないほど重要な意味を持つのだ。第一印象こそが夢の具現化した風景であるのかもしれないとも考えている。しかも、それらの瞬間はどんな機械で記録しても捉えることができないのだ。写真を撮った後に感じることは、それ以下の感覚しか無いのだ。あの、初めてのものと初めて会った記憶そのものが、僕にとっては現実よりも真実味を帯びた空間なのである。

 そう考えながら、また夜の近所を歩きながら僕は「向こう側」に行きたいなと欲しながら、我慢してその雰囲気、空気全てを直観によってのみ記録しようと試みているのである。直観による散歩はスポーツよりも面白い。

2007年10月15日(月)

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-