坂口 恭平 エッセイ

デュシャンの耳

デュシャンはあるノートの中で、
「コールテンのズボンをはいて歩くときの擦れる音は音楽である。」
と言っている。この言葉が忘れられない。
常に僕は、まさに音楽であるものよりも、デュシャンが気づいていたように、
一見、音楽ではないようなものを「まさに音楽である」と認識することに強い関心を持ってきた。

これは音楽だけではなく、勿論、「建築」もそうである。
そのような知覚の転換として、「0円ハウス」「4次元ガーデン」を作ってきた。
もしかしたら僕はそういうところにしか、興味がないのかもしれない。

そういう視点を持ち続けて、まわりの風景を見ていくと、
全てが平べったいものから立体的なものへと変化していくのが分かる。
それらは元々立体的であったことに気づく。
自分の思考が平面的だっただけなのだ。
僕の家のベランダから聞こえてくる、行き交う通行人の足音、話し声、そこを横切る自転車の車輪の音、ブレーキ音、乗っている人の息づかい、車のエンジン音、車内のBGM、クラクション、ある店から有線の音が、上の家からはJ-Popが、鳥は泣き、カラスは叫び、中央線は定期的に通り過ぎる。

全ては定型ではない。
全ての音が違い、それぞれが意識して調和をとっているのではない。
メロディーはバラバラなはず。
終わりもなく、反復もなく、音は常に変化している。

そういう自然に溢れている音というのは、
僕が普段耳にしている「音楽」というものからは遠く離れている。
それらはどれ一つとして定型しない、変化する音だからである。
終わりも始まりもない。
しかし、それは逆に考えてみると、普段触れている音楽というものは、
実はこの常に変化する日常の自然音楽を編集したものである、
ということにもなる。

まさに日常は音楽であり、
音楽というものは自然であり、
常に変化し続けるものである。
僕たちには聞きやすいメロディーが必要なのではないのかもしれない。
空調の、ゴーッという音にも音楽を感じることができるわけである。
もっと耳をすませ、
小さなリズムを変則的なリズムを見逃すな。
僕のまわりには音楽が溢れている。

2006年12月1日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-