坂口 恭平 エッセイ

空間ではなく空気に

僕は、大学では建築学科に入っていた。しかし、大学で授業を受けていると僕が思っている「建築」というものから大きく外れてしまっていくのを感じ、途端に教室を出ていた。まあ20歳になったばかりで少々生意気なところもあり、みんなと同じ事やっていてもどうしようもないよと思ってもいた。が、それだけでは決してなかった。僕はどこのどんな建築家が作った空間というものがどんなに凄いとかはどうでもよかったのだ。それよりもふと入った混み合った飲み屋がなぜあんなにも複雑で広く見えて人を高揚させてしまうのかとか、ステンレスではなく、木製の窓枠がきちんと収まってなくズレているのがなぜ僕を気持ちよくさせるのかなどが知りたかった。 よく考えたらそんなことは教えられて分かるものでもなく、僕は半ば強引であるが必然的に外に、路上に向かっていくことになった。

小学生だった時、僕は自分の部屋の学習机を利用して家を作っていた。家といってもそんなたいそうなものではもちろんなく、図画工作で使っていた画板を机の上に重りを置いて載せ屋根代わりにして、椅子を支えにして、机の下に寝床を作っていた。家族が集まっている居間ではなく、その自分の部屋の中の「家」で飯を食い、寝ていた。僕はいつもそれをする時に決まって両親に「今日テント張ってもいい?」と聞いていた。そのときの気分は竪穴式住居にでも住んでいるようだった。実際住んでいたのは父親の会社の社宅だったのだが、テントを張ったときだけ僕にとってはジャングルにでもいるみたいだったのをはっきりと覚えている。

それから何も変わっていないのにたまに気が遠くなるが、気にしても仕方がないので無視する。そのときから変わらず求めているもの、それは自分がいつも見ている世界は他のどんな事でも再表現されない事だ。絵でも違う、写真でもビデオでも違う。やっぱり目の前の景色はこれ以外に説明がつかない。そして、それを掴もうとすればするほど遠くにいいてしまう、金魚すくいのような気分。

そして、時がたち、今分かることは僕は空間を作りたいわけではないということだ。何か新しい建造物をつくり、空間を表すということには今のところそんなに興味があるわけではない。それよりも今毎日目にしている風景の中で自分がはっとして立ち止まるその空気感とは一体なんなのか。そちらの方がずっと興味がある。自分が気になる瞬間というものは昔から変形しているものの、なんらかの一貫性はあると希望的観測をしてみる。

かちっとした固い「空間」ではないのだ。コールテンのズボンの擦れる音を「音楽」であると言ったデュシャンのような「空気」の中で感じられることに、人は非常に敏感に反応しているのではないかということだ。

2005年10月31日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-